Mischief of a Spring Breeze


この冬は東京でも雪合戦ができるほどの大雪を観測したが、3月も半ばをすぎると流石に春はもうそこまでやってきていた。
そんな、気象庁でも既に桜の開花宣言を発表したとある春の日のこと ――
道路の方に出れば春の嵐が吹き荒れているが、ここ『六花』の前は丁度マンションのお陰で風が遮られ、ポカポカと温かい陽だまりを作っていた。
その陽だまりの中では、猫のにーにが、気持ち良さそうに丸くなって眠っている。
「にゃ〜ん…」
最初にやってきた頃は、それこそ手の平に収まってしまうのではないかと思えるほど小さかったのに、もうすっかり大人の猫である。だが人懐っこさは相変わらずで、六花に来る常連には人気の看板猫でもあった。
そんなにーにが陽だまりでまどろんでいる姿は、のんびりとした気だるい春の午後といった感じののどかなものであったのだけれども。
一歩、ドアを開けた店の中は ―― とてもそんな状態ではなかった。


「あ、一樹さん、済みませんがあちらのお客様にコーヒーのお代わりをお願いできますか?」
「はい、いいですよ。じゃあ、この食器の方、お願いします」
「怜さん、ケーキセット3つ追加だって」
「判りました。あ、みなみさん、先程のフルーツパフェができてますから、お願いします」
それでなくても普通の一般人から見ればちょっと気が引けそうな高級マンションの一階で決して立地条件が良いというわけではないのに、喫茶店『六花』はほぼ満席の状態である。
その殆どが既に常連となっているお客ばかりであるが、加えてこの季節は近くに桜の名所があるために花見帰りの客も入ってくるのだ。
しかもこの日は、晴天ではあるが生憎の強風で。
花見に来たものの流石に強風に煽られた奥様方が、それでは桜よりももっとキレイな華を見ようと思うのは ―― 仕方のないことである。
勿論、料理の味は地域のグルメマップに掲載されてもおかしくないほどの三ツ星でもある。
しかし何よりもさることながら、『六花』のマスターである雪乃は華も色を失うほどの美貌の持ち主で、シェフの怜も癒し系の柔らかい笑顔が良く似合う可憐な青年であるのだ。
おかげでこの二人目当てでやってくる客も多いというのに、それに加えて卒業式も受験も終えて時間のあるみなみと一樹がバイトまがいに手伝いに来ているともなれば、それこそ整理券でも配った方が良いのではと思うほどの客入りである。


「それにしても、今日は一段とお客さんが多いな」
そんな風にカウンター席で呟いたのは、同じくこのマンションに住んでいる佳紀だった。
今日は珍しく有休が取れたので、午前中に部屋の掃除と買い物を済ませ、午後はゆっくりと『六花』でコーヒーを楽しもうと来たのだが、流石にこの満員振りには驚いていた。
「そうですね。公園の桜も満開になりましたから、お花見帰りのお客さんがいらしてるんですよ」
「そうみたいだね。でも、みなみ君たちが手伝いに来てるとは思わなかったな」
「だって、怜さんも雪乃さんも大変そうだったから、少しでもお手伝いができたらと思って」
そう言ってニッコリと微笑む一樹だが、実は自分も客寄せの一因となっていることには気が付いていないようだ。
その一方で、
「それに、4月までは時間もあるしね。生憎、龍一も仕事が入ってるし、結城も年度末で流石に休みが取れないし」
何気にそんなことをいうみなみだが、その一言 ―― 特に最後の ―― は、佳紀の胸にズキッときた。
何せ結城は ―― 佳紀の勤め先の社長である。
「そ、そうだよな。いや、社長職っていうのは大変だよな」
「あ、別に石崎さんは有休取れて良いなって訳じゃないよ。結城のワーカーホリックは今に始まったことじゃないから」
「うっ…お、俺も手伝おうか?」
「もう、みなみさん…。石崎さんも気にしないで下さい。折角の有休なのでしょう? ゆっくりして行ってくださいね」
そう助け舟を出したのは雪乃であるが、パートナーが忙しいというのはこちらも同様だった。
雪乃の恋人である龍二も丁度決算月であれこれと忙しいし、となれば勿論その秘書である八坂 ―― 怜のパートナーも同様である。
そう考えれば、実は年度末で有休が有り余ってしまったから試しに申請したら珍しく通ってしまったという佳紀と、明日は休診日だという北野のカップルだけが物凄い贅沢をしているような気にさえなってくる。
そうこの時までは、自分達だけいい思いをしているような気がしてどこか気が引けていた佳紀だが、まさかこの後にあんなことがあるとは思わなかったのだった。



流石に夕方の4時もすぎれば、満員御礼だった『六花』ちらほらと空きのテーブルが現れ始めていた。
常連の殆どを占める主婦層はそろそろ夕飯の支度だし、仕事途中のサラリーマンは会社に戻って報告をする頃である。
そのため、
「御疲れ様でした。みなみさん、一樹さん。ちょっと休んでください」
雪乃はそう言ってコーヒーと怜の御手製クッキーを差し出した。
「今日は本当に助かりました」
「いいえ、いつもご馳走になってますし、御手伝いできてよかったです」
「そうだね。僕も面白かったよ」
接客業は結構気を使うものだが、そんなことも楽しかった言えるのは若い証拠といえるものだ。
尤も、
「でも、やっぱりなんかもの足りないな。はやく龍二さんも帰って来ればいいのにね」
そんなふうに呟くみなみの口調は、まるで仲のいい友達を待っているようだが ―― ただ単に、からかって遊ぶ相手が欲しいだけであることは、ここにいるメンバーなら誰でも知っていることで。色恋ではないことが判っているから、雪乃も笑ってみていられるのだ。
しかし、
「龍二さんはここのところお仕事が忙しいんですよ。年度末ですし、4月からの新しいプロジェクトの準備もあるようですから」
そういう雪乃の表情には、寧ろ忙しすぎて身体を壊しはしないかと思う心配の方が強そうだ。
「へぇ〜じゃあ、八坂さんも忙しいんだ?」
「ええ、暁さんもここのところ、帰りは遅くて。望くんも朝しか逢えないくらいなんですよ」
「そうですか。実は省吾さんもお忙しいみたいなんです。省吾さん、そんなことは言いませんけけど…やっぱり心配ですよね」
会社人にとって、年度末はなにかと忙しいもの。ましてや企業のトップともなればその多忙ぶりは並大抵ではないはずだ。
だからこそ側で見ているしか出来ないと思えば ―― 歯痒く思うというもので。
そしてそういうことは、医者と言う職業柄、年がら年中忙しい北野を見ている佳紀にも気持ちは判るところだ。
「そうだよな。忙しいのは判ってるけど、休んで欲しいときもあるし…。無理するなって言ったって、聞きゃしないし」
そんなふうにちょっとブルーになりかけた雰囲気だったが、
「もう、皆して暗くなってちゃ駄目だよ。それに、仕事が一段落したらその分、いーっぱい愛されるのは目に見えてるんだから。体力、付けとかないとね」
みなみがそんなふうに言い出して、怜が作ってくれたスパゲティを大皿によそると、
「え? あ…もう、みなみってば!」
「うっ…それは…」
「そう…ですね」
「ええ、確かに…」
途端にそれぞれの恋人がどう言ってくるか想像に容易くて、つい頬を赤らめてしまう。
そんな感じで、結局、客が減ってゆっくり出来るようになっても、そのまま『六花』でわいわいとにぎやかに話し込んでいた。
そして、他愛もない話も一段落したその時 ――
「こんばんは〜」
不意に店のドアが開き、新しいお客が入って来た。
それに、条件反射のように怜と雪乃が気がつき、
「はい、いらっしゃい…」
いつものように笑顔で出迎えようとした怜が、カウンターの中で固まったように目を見張る。
「怜さん?」
「どうしたの?」
その様子に、入り口には背を向けるように座っていたみなみや一樹、それに佳紀も振り向いて、
「え?」
「あっ…」
「うわぁっ…」
そこに現れた一人の青年に、言葉を失った。
着ている服は、どこにでもありそうな白いシャツにジーンズというごく普通のもの。
だがそれを着ている人間は、とてもヒトには思えないほどの美貌の持ち主だった。
ここにいる者達は、はっきり言って、美人なんて見慣れているはずである。
子供の頃から女の子と間違えられることが多かったという雪乃に、最近ではなんともいえない色っぽさを増してきたみなみ。怜は最近の幸せ振りがその姿から滲んで見えるようだし、童顔ゆえに年相応に見られることは少ないという佳紀も可愛い。そして、一樹の無垢な笑顔には誰もが癒されると言われているくらい。
それこそ、良くこんなにキレイどころばかり集まったものと思われるというのに、その全員が一瞬、言葉を失ってしまったくらいだ。
勿論、まだ数名の残っていた客も、コーヒーカップを持つ手が止まり、口に運びかけたフォークが宙でとまったままだ。
しかし、
「こんにちは。席、空いてますか?」
そうニッコリと微笑んだその青年は、そんな店内の様子など全く気にもせず、カウンターの雪乃や怜に向かって微笑みかけた。
「あ、はい。御一人ですか?」
「いえ、待ち合わせなんです。それにパソコンを使いたいから…できたらテーブル席がいいんだけど?」
「では、こちらへ…どうぞ」
流石にそこはマスターである雪乃が一番に我に返り、その青年を窓側の席に誘導する。
そして、
「ここ、コーヒーが美味しいって聞いてきたんですよ。マンデリン、お願いできます?」
「はい、お待ち下さい」
そうオーダーを出すと、その青年は手持ちのバックからノートパソコンを出して電源を入れていた。



「凄い、美人だねぇ」
ふと我に返り、冷めかかったコーヒーを口に運ぶと、みなみはそんな風に呟いた。
勿論それが誰のことかは、言うまでもない。
「雪乃さんとはまた違って意味で華があるよね」
「え? それを言うなら、みなみさんとはちょっと違った艶っぽさがあると言う感じだと思いますよ」
「笑顔も綺麗ですね。なんかこう…一樹さんの笑顔のように癒されると言うか」
「怜さんみたいに温かい感じがするって言うか…」
「佳紀さんみたいに可愛い感じもしますね」
そんなふうに仮にもお客を値踏みするようなことよくないことだとは思うのだけれども、既に店内の視線はある一点に集中して、外されることがなくなっている。
だが、当の本人は全く気がついていないようで、カタカタと手馴れたタッチで開いたノートパソコンのキーボートを叩いていた。
「待ち合わせって言ってたよね。恋人かな?」
これほどの美人だと、おそらく周りも放ってはおかないと思うところだ。しかし、そんな風にみなみが呟くと、不意に怜が表情を曇らせた。
昔は来るものは拒まずだったから ―― と聞いている八坂がもしあの人を見たら、とても自分では太刀打ちできないと思ってしまう。
いくら籍を入れたとはいっても、まだまだ自分に自信を持ちきれない怜にはつい悪い方へと考えてしまうところがあって。
それに気がついたみなみは慌てて否定した。
「もう、怜さんはもっと自分に自信を持たなきゃ!」
「ええ、判っているんですが…つい…」
龍一とみなみのように御互いを信じて疑う余地もないほどの絆は羨ましいと思うし、雪乃を思う龍二の一途さは良く知っている。それに北野は佳紀にしか興味はないと一目で判るし、一樹以外はヒトとも思わない結城も心配はないだろうと思うところだ。
尤も、そう思っているのは怜だけで、
「まぁ…龍一も昔は結構、遊んでたって言うし」
「龍二さんも、高校のときは朝帰りもありましたし」
「心配がないのっていえば、結城と北野先生だよねぇ」
「ええ、あの御二人は…一樹さんや佳紀さん以外は視界にも入らないって感じですね」
そんな風に呟けば、言われた一樹や佳紀はくすぐったそうに苦笑した。
「でも、八坂さんだって今は怜さんだけでしょう?」
「そうだよ。この前だって、姐さんの悪戯でかなり怒ってたじゃん」
それは、龍一・龍二の母親である姐さんが納涼で思いついた悪戯で。いくら怜を泣かせたからといっても、姐さんには逆らえないことを知っている三角に殴りかかるとは、誰も思わなかったところだ。
それほど、八坂にとっては怜が大事と言うことなのだろう。
「大体、あの人はたんなるお客様ですよ。僕たちとは関係のない人でしょう?」
と雪乃が結論付けたその時、
―― カラ〜ン…
ドアベルが涼しい音を立てて、新しいお客の来訪を告げた。
しかし、
「…ここにいたのか、佳紀」
そう聞こえてきた不機嫌そうな声は ――
「え? あ、泰輝?」
びっくりして立ち上がった佳紀だったが、次の瞬間、その表情は凍りついた。
「北野先生っ!」
そう、佳紀の背後から北野を呼んだのは、あの美貌の青年だったのだ。




外はそろそろ陽が陰ろうとしているころで、この日も一樹の護衛についていた松島は流石に冷え込んできた外気に震えながらも『六花』に入る事はなかった。
ここのところ結城は仕事が忙しくて、なかなか一樹と会えないでいる。それを思えば護衛であるとはいえずっと一樹の笑顔を見守っていられる自分は幸せ者だと思いもするところである。
ところが、
―― プルプルプル…
ポケットに忍ばせておいた携帯が着信を告げ、松島は緊張した面持ちで回線を開いた。
『一樹さんはどうされていますか? 松島』
それは ―― 聞き間違えをするはすもない、結城の声で。
「はいっ、結城様。一樹様はいま、『六花』と言う喫茶店にいらっしゃいます。みなみ様もご一緒です」
その受け答えは、まるで結城本人を目の前にしているかのように畏まっている。
しかし、
『…そうですか。では、私の仕事も今日は早く終わりそうなのでそちらに向かいます。引き続き、一樹さんの護衛を続けなさい』
「はいっ!」
それは結城にとっては当然ともいえる命令なのだが、松島にとっては天の声にも等しいお言葉である。だから、勿論命に代えても ―― と言い掛けて、
「あ…れ?」
松島は不意に辺りの雰囲気が変わったことに気が付いた。
余り広いとはいえない『六花』の向かいの通りに、明らかに普通とは思えない黒塗りの車が止まっている。
窓ガラスも真っ黒なスモークが貼られているために中の様子は判らないが、やがて別のビルの陰からその車に近づいたのは、明らかに真っ当な職種とは思えない若い男だ。
『どうしました、松島?』
電話の向こうの結城も、一樹の身に何かあったのかと声に緊張が走る。
その男 ―― どう見ても、どこかのチンピラ風 ―― は、ペコペコと頭を下げながらなにやら車の中の人物と話をしているようで、しかも時折向ける視線の先は、紛れもなく『六花』である。
「いえ、ちょっと怪しい車が…。あ、でもご安心ください。一樹様は何があってもお守りします!」
そう言って一方的に電話を切ると、松島は先ほどより更に気合を入れて『六花』を ―― 一樹を見守っていた。


丁度その頃、
「ん…?」
漸く仕事を終えてみれば龍一の携帯には『六花にお邪魔してるね』というみなみからのメールが入っていた。
そのため迎えがてらに来てみると、『六花』の前はいつもと違う雰囲気に包まれていて。
なんとなく張り詰めたというか、どことなく殺気めいた気さえするのは ――
「…あれか?」
何でもないように咥え煙草で見やった先には、先ほど松島が見つけたのと同じ黒塗りの車が止まっている。
明らかに普通の人間が乗るような車ではなく、この場の異様な空気もあの車が原因だということは一目瞭然で。
(防弾仕様とは…穏やかじゃないな)
パッと見は高級車の代名詞のようなロールスロイス。だが、その中でも更に最上級クラスのファントムと呼ばれるグレードで、更に防弾仕様ともなれば日本でも数台というレア物だろう。
そんな車を乗り回しているといえば ――
「あ、兄貴!」
丁度その時、反対側から『六花』にやってきた龍二と八坂に鉢合わせた。
二人ともどこか緊張した雰囲気なのは、言うまでもない。
「龍一さん…」
「ああ、判っている」
龍二にしろ八坂にしろ、腕に自信がないことはないが、ここは最も大切な人がいる場所である。下手にコトを大きくして巻き込むようなことはできないし、かといってこのまま何事もなくとも思えない。
しかし、
不意にロールスロイスの運転席が開き、中から降りてきた男が軽く龍一たちに会釈をした。年のころは35、6と言ったところ。いかにもキレ者といった隙のない立ち居は ―― 相変わらずだ。
そう、その男には龍一も八坂も見覚えがあって ――
「あれは…」
「…少なくとも、ここでどうこうという感じじゃなさそうだな」
ふぅっと緊張を解くように煙草の煙を吐き出すと、龍一は二人を伴って『六花』のドアをくぐった。



「あ、龍一〜♪」
『六花』のドアを開けると、一番に飛び込んできたのはみなみの甘えるような声だった。
「待たせたな、みなみ。雪乃、灰皿をくれ」
ヘビースモーカーを自負する龍一だが、ここではコーヒーのいい匂いを邪魔することになってしまうから、極力吸わないようにしている。そのことはみなみも良く知っているので、雪乃から灰皿を受け取ると、龍一に差し出した。
「仕事は片付いたんだ。良かったね。ああ、そんなに待ってないよ。ちょっと面白い展開になってきたところだしぃ〜」
そんな風に悪戯っぽく笑っている先では、北野が先ほどの美青年と同じテーブルで話し込んでいる。
それは、どう見てもかなり親密な関係のように見えて ――
おかげで佳紀は呆然としているし、怜は気が気でないといった感じ。雪乃でさえ佳紀になんて声をかけたらいいのかとおろおろとしており、唯一判っていないのは一樹くらいなものだろう。
勿論、みなみは ―― 楽しんでいるとしか思えない。
しかし、
(成程、そういうことか)
北野はともかくその相手の青年を一目見るなり、どこか納得したような表情をみせた龍一に、気が付かないみなみではなかった。
「…ふぅ〜ん、何か知ってるって言う感じだね?」
「まぁな」
「なんだ。じゃあ、やっぱりそうなんだ。北野先生も隅に置けないな〜って思ったのに」
思いっきり残念そうに呟いたのは、ちょっと考えれば判ることだ。
もしこれが本当に北野の浮気なら、わざわざ逢引の場所を『六花』にするはずがない。
例えここに佳紀が来ていなくても、ここでのことは容易く耳に入ってしまうのは目に見えているというものだから。
それに、
「まぁ、デートでパソコンはないもんねぇ」
そう、二人が一見肩を寄せ合うように見入っているのは、あの青年が持ってきたパソコンの画面である。幾ら出会い系サイトが大流行のご時勢とはいえ、面と向かってまでそれは ―― というところだ。
尤も、余りのショックにそこまで頭の回らない佳紀には、どうやら聞こえてはいないようで。
「みなみ、お前…」
「まぁ北野先生に限って〜とは思ってたけどね」
「…冗談でもやめておけ。下手をすると、殺されかねないぞ」
そんなことを言う龍一に、みなみは、
「やだな。もう小児科にかかる年じゃないもん」
そう、4月からは大学生になるというみなみだから、小児科担当の北野の世話になることはないと思ってそう応えたのだが、
「いや、北野にじゃない」
そう龍一が呟いた、その時、
―― カラ〜ン
「お邪魔しま〜す」
そう言って若い男がドアからひょいと顔を覗かせた。そこで雪乃が
「いらっしゃいませ?」
直ぐにマスターの顔を取り戻してそう挨拶をしたが、
「あ、すみません。客じゃないっす。ちょっと人を探して…」
そう応えて店の奥 ―― 例の一画に気が付くと、
「あ、アニキ、克己さんいましたよ!」
そう言ってドアを開けると、その瞬間、黒い影が殺気とともに姿を現した。
「 ―― っ!」
一瞬にして空気が入れ替わったかと思うほどの冷たい殺気に、怜や雪乃は顔色を失い、みなみでさえもがゾクッと背筋に悪寒を感じる。
もしもこの場に望がいれば ―― 夜中にうなされてしまうだろうと思うほどの殺気で、龍二や八坂もサッと緊張に身体を硬くした。
ところが、
「あ…龍也っ!?」
全くその場の空気に合わない嬉しそうな声を上げたのは、やはりあの美青年だった。
「どうしたの? 香港から帰ってくるの、明日じゃなかったっけ?」
「予定を早めた」
「え? 夕べの電話ではそんなこと言ってくれなかったじゃない? でも…嬉しいな」
そう言ってその青年がにっこりと ―― それこそ全てを魅了する天使の微笑を向けた瞬間、黒い影の殺気が胡散した。
黒いスーツ ―― それも、一見して判る高級ブランド品をそつなく着こなすどう見ても只者とは思えない危険そうな男と、これまた類稀と言ってもいい美貌の青年。
それはそこだけが別世界に入ってしまったかのように二人だけの世界を作っていたのだが、
「克己、そいつは何だ?」
ふと思い出したように、龍也と呼ばれていたスーツの男が北野を睨んで尋ねた。
すると、
「あ…こちらは北野先生。東城病院の小児科の先生でね、今度、『小児医療の最前線』っていうシンポジウムでご一緒することになって。今、その打ち合わせをしているところなんだよ」
克己と呼ばれた美青年は、全く何事なかったかのようにニコニコと説明した。
それを聞いて、
「あ、そういえば…」
途端に現実に戻った佳紀は、しかも新富製薬もその協賛に入っていたということ思い出した。
そう確か、その講演のパネリストとして、北野に依頼したのは自分だったはずで ―― そして小田切からも、自分の代わりに飛びっきりの美人を推薦しておくと言われた気がする。
確か五十嵐病院の外科医で、名前は本条克己と言っていたような ――
「なぁ〜んだ。そういうことか」
一方のみなみは、あっさりと種明かしをされて面白くないようだ。
しかし、
「龍一は…知ってたの?」
それは寧ろ、あのスーツの男の方で。
入ってきた瞬間、咄嗟に八坂や龍二がそれぞれのパートナーを庇うように立ち上がったのを、みなみは見過ごさなかった。
勿論それは龍一も同じだったことはいうまでもないが。
「ああ、実家が同業だったからな。しかもあっちは今でも現役だ」
「え? ってことは…」
「広域指定暴力団蒼神会、藤代組の三代目だ」
広域指定暴力団蒼神会と言えば ―― かつては龍一や龍二の実家である斉藤家の竜虎会と肩を並べるヤクザである。しかも竜虎会が解散してからは実質関東最大の一大勢力を誇り、いまや東日本を総支配におくとも言われているほどだ。
その三代目を継いだのが、一昨年大学を卒業した初代の孫で ―― 名前は、藤代龍也。今年25歳という若さであるということは、勿論みなみも聞いた事がある。
それに、
「蒼神会の三代目が、白衣の天使に入れ込んでいるって言うのは…裏世界では有名な話だ。何せ相手は五十嵐病院の院長の甥だからな」
「ふぅ〜ん、あの五十嵐病院ねぇ〜」
そうみなみが意味深に呟いたのは、五十嵐病院が東城病院に負けない大病院と言うからだけではない。五十嵐病院と言えば、その院長夫人はかつては総理も勤めたという政界の大御所榊原泰久の娘で、その親族ともなれば当然政財界にも顔が利くはず。実際、みなみも院長夫人とは何度か顔を合わせたこともあるはずで、
「そういえば…あそこには凄いキレイなお姫様がいて、院長夫妻が溺愛しているって聞いてたけど…?」
「ああ、院長の妹だろ? 確かもう亡くなったはずだが…あの美人の母親のはずだ」
そう言われると、成程と納得できた。
だが、納得していないのはどうやら龍也の方で、
「何でお前が小児科なんだ。専門は外科だろうが?」
「うーん、それが、本当はね、北野先生と同じ病院の小田切先生っていう外科の先生がやるはずだったんだけど小田切先生がどうしても都合が付かなくって。で、僕に代わって欲しいって頼まれたんだ」
「東城病院にも外科医は他にいるだろっ!?」
「それはそうだろうけど…でも、小田切先生にはこの前の学会のときにお茶をご馳走になったし。それに、何か借りがあったみたいなんだよね。これでチャラにしてあげるからねって言われたから、まぁいいかなって思って」
そんな風に屈託もなく話すところなど、とてもヤクザの愛人とは思えないところだ。
だが、克己のそんな無垢なところには慣れっこなのだろう。
「あ、それはですね。多分、この前の都議の息子の交通事故の件ですよ。確かあの息子の担当が東城病院の小田切先生でしたから」
そう言って先に顔を出した男 ―― 龍也の舎弟で、克己の世話役でもある良介が説明したのは、某都議会議員の息子が克己に言い寄ってきており、わざと交通事故を起こして担当医にし、その隙を見てモノにしようと企んでいたということで。
だが、一早くそれに気が付いた龍也が逆にその事故で馬鹿息子を亡き者にしてしまおうとしたのだが、幸か不幸か一命を取り留めてしまった。しかしその日の救急担当は五十嵐病院だったので、駆けつけた救急隊員を「説得」して他の病院 ―― つまり、東城病院に回させた、ということだったらしい。
しかも付け加えるなら、その日は定時で上がれたら食事に行こうと約束していた克己は龍也と約束どおりにホテルで食事をしてお泊りになっていたが、一方で同じように定時で上がったら久々に一緒に食事をと約束していた小田切と聖也は ―― 当然、キャンセルになったとかで。
「フン、だから後腐れなく東京湾に沈めておけと言ったんだ」
「そういうわけには行かないでしょ、例の件でサツのマークがついてるんですから」
「だったら親父の方も始末すればよかったんだ。元を正せばアレが原因だろうが」
「だめですって。そっちは院長夫人のエモノだから手を出すなっていうことになってるんですからっ!」
それはそれで ―― と怖い話ではあるのだが、
「もう、龍也も良介君も。そんな冗談ばっかり言ってると、皆に誤解されちゃうでしょ」
そう真顔で嗜める克己に、一樹以外のその場の全員がそれは絶対に冗談じゃないから ―― と思うところだ。
しかも、その時、
「一樹様、無事ですかっ!」
「え、松島っ?」
転がるように飛び込んできたのは、一樹のボディガードでもある松島で。
恐らく一樹の身を心配して飛び込んできたのだろうが ――
「…何の真似だ、貴様」
仮にもボディガードとして任命されるくらいだから、それなりに体術も力も自信があったはず。
しかし、あっさりと龍也に逆手を取られ、しかも喉元にはいつの間に取り出したのか刃渡り10センチ以上のアーミーナイフが突きつけられている。
そのすばやさは、さすがに龍一でさえ一瞬で遅れたくらいで、
「…松島、ヤバイね」
余程のことでは物怖じしないみなみでさえ、松島殉職?と思ったくらいだ。
だが、
「一樹さん。危ないですから、ゆっくりとこちらに来てください」
そう言って更に松島の後から現れた結城の手には、明らかに拳銃があって ――
それに気が付いた龍也は、すぐさま松島を床に這わせると右手のナイフを喉元に突きつけたまま、左手で銃口を結城に向けた
「あ、省吾さん!」
そんな不穏な空気より、ただ単に結城の姿に安心した一樹が嬉しそうに名前を呼ぶ。
だがどう見てもこれは一触即発は間違いなく、八坂と龍二が雪乃や怜、佳紀を自分達の背後に隠すように壁になり、流石に龍一やみなみも、これは血を見ずにはいられないかと思った、その時 ――
「もう、龍也ってば、そんなもの出したら危ないでしょ?」
「っ ―― 克己!」
ペシっとナイフを持っていた龍也の手を叩くと、克己は床に這わされていた松島に手を貸して起こした。
「ごめんね。びっくりしたでしょ? 龍也ってば、すぐ手が出ちゃうんだよね。怪我とかない?」
「え? あ…はいっ」
吃驚するのは、この場の空気に全く動じていない克己の方といいたいところだ。
しかも、
「アニキっ!こんなとこで刃傷沙汰はヤバイっす! 克己先生の仕事が増えちゃいますよ?」
「大体、パイソンはやばいでしょ。そんなの撃ったら、頭がぶっ飛んで克己さんまで血飛沫あびちゃいますって。せめてベレッタの方にしましょうね」
いや、そういう問題じゃないだろうと思うところだが、更に結城の背後から現れた男がそんなことを言ってさりげなく結城と龍也の間に入れば、漸く二人とも銃をおろす気になったようだ。
それを見て苦笑しながら、
「だめですよ、克己さん。若がいないからって、浮気しちゃあ。若がぶちキレして銃撃戦にでもなったら、大変じゃないですか?」
「やだなぁ、加賀山さんまで、冗談ばっかり言うんだから」
そう言ってコロコロと笑う克己に、殆どの人間は冗談ではないからと突っ込みを入れたいところだ。
しかも、
「とにかく。龍也もふざけてないで、もうちょっと待っててね。そうそう、ここのコーヒー、ホントに美味しいんだよ。ご馳走になるといいよ」
「何?」
「だって、僕、もうちょっと北野先生と打ち合わせしたいから…終わるまで待っててくれるでしょ?」
そんなことを疑いもなく言う克己に、お願いだから今日はもう帰ってくださいと思ったのは間違いない。
だから
「いや、本条君。今日はこのくらいにしておいたほうがいいだろう。折角の迎えを待たせるのも悪いしな」
というか、この状況で龍也に待たれては、はっきり言って精神衛生上良くないと思える。
そのためそう北野が言うと、無意識にその場にいた全員がうんうんと頷いていた。
だが、克己はこの場の全員の内心など全く気にしていないようで
「え? そうですか? じゃあ、院内学級の資料は僕の方で用意しておきますね。他に何かあったらメールでもください」
「…ああ、判った」
そう応えてはおいたが ―― 恐らくそれはありえないだろうと思う。
そもそもシンポジウムの方だって、こうなっては克己の出席が実現するかどうか怪しいところだ。
だが、
「コーヒー美味しかったです。またお邪魔しますね」
当然のように龍也の横に並んで微笑む克己は、見かけ以上に綺麗で幸せそうで。まるで生まれながらの対の存在という感じに見えてくる。
だから
「ありがとうございます。ええ、是非…」
今度はお一人で ―― と思うところだが、あえてそれは口には出さず。
雪乃と怜は心からの笑みで見送ると、そのままドアにCLOSEの札をかけた。



まるで一陣の風のように全てが片付くと、
「最初はどうなることかと思ったけど…退屈しのぎにはなったねぇ」
終わりよければ全てよし、と。みなみが楽しそうに呟けば、
「冗談じゃないですよ。怪我がなかったから良かったようなものの…一樹さんにもしものことがあったら…」
そう睨んでくる結城に、やっぱり心配なのは一樹だけなんだと誰もが納得する。
そして、
「いや、あの場合…危なかったのは北野だろ?」
そう龍一が訂正すれば、
「そうそう、北野先生があんなキレイなヒトと逢引なんかするんだもんねぇ〜」
そう火に油を注いだのは、みなみだった。
「逢引じゃない。単なる打ち合わせだ」
「それにしては、お似合いだったよね。石崎さんも、心配だったよねぇ?」
「え? あ、そ、それは…」
確かに一瞬そう思ったのは事実だが ――
「ほう、佳紀。お前も私が本条君と浮気と思ったのか?」
そう言って見据えてきた北野の視線が ―― 佳紀にとっては先程のいざこざより遥かに恐ろしい。
「え? だって…その…」
「これは…よく躾け直す必要がありそうだな」
「な、なんだよ、躾けって!」
「幸い、明日は私も休診だ」
「俺は仕事!」
「今日一日ゆっくりして、英気は養っているだろう?」
「それとコレは違う!」
そんな叫びも空しくお持ち帰りされた佳紀を見送って、龍一みなみのカップルを除くほかの攻めたちが
(うちも躾けが必要か?)
そう思ったかどうかは ―― 神のみぞ知る、である。





to be continued ...?

かなり前からお邪魔している<STUDIO YY>のYou様へ
400万Hit おめでとうございます〜♪
本当は、もっと早くにお贈りできればよかったのですが
恐ろしく遅筆なもので…。(苦笑)
しかも、勝手にキャラを使わせていただいてしまいました。

前から、是非「六花」には行きたいなぁ〜と。
なので、今回は克己と龍也にお邪魔させてしまいました。
本当に物騒な連中で申し訳ございません〜。

それでは。
今後の益々のご活躍をお祈りしております。

2006.04.12. 小早川 浅葱


追伸:龍也の年齢の記載に間違いがありましたので
訂正しました。すみません〜。(2006.11.03.)


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Heaven's Garden
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