桜:04 飴玉 (幸洋×郁巳)


『貝塚先輩? いつも郁巳がお世話になっております』
その電話が職場にかかってきたのは、学生達が夏休みに入ったばかりの7月末のことだった。



「おっ帰り〜。幸洋、俺、お腹空いて死にそうだよぉ〜」
そう言って抱きついてきたのは、我侭な子猫のような恋人の郁巳だった。
「…あのな、郁巳。俺は仕事をして今帰ってきた所だぞ?」
一応そう言って状況を確認してみるのだが、
「だって、マジに腹減ってるんだもん」
そんなことを言って拗ねたような顔で見上げてくるのは、馴れたものだと言っても食指が動く。しかもどこで買ってきたのか、着ている服は明らかにサイズの違うちょっと大きめのシャツ1枚。
あまり陽に当たらない ―― 職業柄、日焼けは厳禁だから ―― 白くて細い生足がこれ見よがしに晒されている。
「まぁ俺も腹は減ってるが…」
「じゃ、食べに行く?」
その格好でか?と聞きたいが、じゃなければ何か作ってくれといわれるのがオチだから黙っておく。それよりもとりあえずは中に入れさせてくれと部屋に上がれば、リビングにはある意味見慣れた着物がぞんざいに放り出されてあった。
それを見て、漸く納得する。
「…お前、稽古の途中で脱走したのか?」
「うんv あ、幸洋の服、借りてるよ。ちょっと大きいけど涼しくていいね」
「暑いならエアコンを入れればいいだろう?」
「え〜、エアコンの風って好きじゃないんだもん」
そう言って抱きついてくる郁巳は ―― まるっきりネコそのものだ。
「あのな、お前…」
「あ、そうだ。今日ね、郵便屋さんと宅急便屋さんが来たよ。書留と荷物はここにおいてるから」
とニッコリ微笑んで言えば ――
「…その格好で出たのか?」
「ん? だって稽古着はヤなんだもん」
そもそも日本舞踊の踊り手である郁巳のこと。人前で着替えることなど当たり前だから気にならないとは言っていたが、
「…食べに行くのは却下だな」
俺は深く溜息を付いてそう告げた。
「その前にお前を食ってやる」



「…で、今日は何があった?」
結局、リビングで押し倒してワンラウンド。その後シャワールームで洗いながら2回ほどイかせて、寝室に戻って…数も判らなくなるほど。流石に郁巳も最後は泣きながら許しを請って、今は指1本動かすこともできないほどにぐったりと横たわっている。
それでも ―― いや、だからこそ匂うような艶っぽさを纏っていて。
ホント、これがちょっと前まで「色気が足りない」なんて言われていたとは思えないんだがな。
「ん…あのね…来月の特別公演に…僕も出ろって…」
「来月の? 確か爺さんの人間国宝何十年の記念公演だって言ってた…あれか?」
「そうだよ。で、そのせいで、来週からの旅行はダメだって」
…なるほどな。そういうことか。
郁巳の爺さんは人間国宝とかに選ばれている日本舞踊の踊り手で、孫である郁巳はその後を継ぐ跡取りというわけだ。当然、そんな記念公演に出ないでいられるわけもなく…
「そりゃ、仕方ないな」
「仕方ないじゃないよ! 今年こそ、海に行くって約束したのにっ!」
何せ女形の郁巳だ。日焼けなんか出来るわけもなく、海水浴には生まれてこの方行ったこともないと言っていたから、じゃあ俺が連れて行ってやろうといって旅行の計画を立てたのだが、
「今年の夏は好きにしていいって言ってたのに! もうじーちゃんも父さんも母さんも大っ嫌い!」
余程楽しみにしていたのだろう。先ほどまでの情事の名残で緩くなっているとはいえ、涙声にまでなっているとなると、流石に俺も甘やかしたくなるな。
それに、実は既に手は回ってるんだよな。
「仕方がないだろ? その代わりと言っちゃあなんだが、海の見える温泉宿を知ってるぞ。秋の連休辺りに行かないか?」
「え? でも、幸洋、仕事は?」
「お前が公演中は休んでもしょうがないからな。振り替えてもらうから心配するな」
「いいの? ホント? 嬉しいっ! ありがとうっv」
そう言って満面の笑顔を戻した郁巳は、やっぱりネコのように可愛かった。



『ええ、キャンセル料金はこちらで支払わせていただきますわ。それと、とてもいい温泉宿を知ってますの。よろしかったら秋口にでもいかれてはどうですか? もちろん、郁巳と』
コロコロと鈴のような声が、電話越しでも透き通って聞こえてくる。
「アイツが行きたがってるのは海だろ? 海水浴っていうのに憧れているみたいだぞ?」
『判ってますわ。でも、日焼けはやっぱり…ね。それは貝塚先輩もそうでしょう? 郁巳が人前で水着なんて、許せます?』
「…そういうことを、お前が言うのか?」
『ホホホ…だって可愛い弟のことでですモノv それにご紹介する温泉宿も、目の前は海ですわ』
そもそも郁巳が拘っているのは、俺との旅行というのが一番だろうということぐらいはわかっているし。
「…判った。で、それをアイツに納得させればいいんだな」
『ええ、お願いします。ついでに旅行に行きたければ、公演も成功させるように、と』
「見事なアメとムチだな」
『ええ、飴が極上ですから助かりますわ』
ではよろしく ―― と切れると、流石にどっと疲れが押し寄せた。
郁巳がボイコットして逃げたから、あとはよろしくという姉の弥生からの電話。
「ったく、俺は飴かよ? そんなに甘くないぞ」
とは言うものの、郁巳相手には…?




Fin.


2004.08.30.

Silverry moon light