◆◆ On Tha Wind ◆◆



『ねぇ、良かったら遊びに来ない?』
そんな電話が咲綺の元にかかってきたのは、とある梅雨空の昼下がりだった。





入り口の自動ドアをくぐると、独特の匂いが咲綺の鼻についた。
喧騒とまではいかなくてもざわついた空気に漂う消毒液の匂い。好きにはなれないが、この建物ならその匂いが充満していても仕方がなくて。
「えっと…とりあえずは受付にでもお伺いしてみましょうか?」
そんな独り言を呟いて辺りを見回すと、吹き抜けの2階から手を振る白衣姿が目に入った。
「咲綺さん! こっちだよ♪」
「あ、克己さん…」
仮にも病院のロビーである。流石に大声を出すのはと思いつつ、呼んだ克己の方は全く気にした風がない。
尤も、克己にとっては日常の大半を過ごしている場所だから、当然と言えば当然なのかもしれないが。
(っていうか、このパターンって…なんか似たようなことがありましたね?)
と咲綺が思うのは、つい先日も克己に呼び出されて向かったホテルでのコト。
『ね、お願い。咲綺さんならぜーったい似合うと思うんだv』
そう言われて押し切られて、白無垢なんて着せられたのは記憶に新しい。他のお友達になった人たちから比べれば、遥かに肌の露出度は少なかったし、あろうことか綿帽子なんて被らされたから顔もそんなに晒したわけではないが、でもその後迎えに来た正毅には ―― ///。
キレイだ、可愛いといわれたのははっきり言って嬉しかったが、そのあとのお仕置き(?)で散々啼かされたのは言うまでもない。
それでも、克己からのお誘いの電話には何故か断われなくて。
「ホントに大丈夫…なんでしょうか?」
と呟きつつ、咲綺は五十嵐総合病院を訪れたのだった。





「一寸待っててね、今着替えちゃうから」
そう言って招き入れられたのは医局と呼ばれる部屋で、そこには先日のホテルでやはりお友達になった叶 皇紀も待っていた。
「こんにちは、咲綺さん」
「こんにちは、皇紀さん」
ペコリと自然と頭を下げて挨拶するところは、幼い頃からの教育ゆえか。どんなに親しくなった相手でもちゃんと挨拶をする咲綺は例え年上でも本当に可愛いというイメージが離れない。
「皇紀さんも、克己さんに呼ばれたのですか?」
そう咲綺が聞くのも無理はないところで ―― そもそも先日のホテルの一件には、この皇紀も一枚加わっていたから。
だから、今回もそのパターンかと咲綺が思うのは仕方のないことであるが ――
「うん、まぁね。でも今回は俺の方からもお願いしたって言う方が正しいかな?」
そう言ってニコっと微笑む姿は本当に楽しそうだった。
そして、
「お待ちどうさま。じゃ、行こっか?」
「はい…って、え? 克己さん?」
咲綺がびっくりするのも無理はなく ―― そこにいたのは皮のツナギを着込んだ、まるでレーサーのような克己の姿だった。



*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*



『皇紀クンはオフロードとサーキット、どっちが好き?』
その日克己から突然かかってきた電話でそんなことを聞かれた皇紀は、何の事か判らず受話器を持ち直した。
「オフロードとサーキット? 何、それ?」
『車だよ。あ、バイクでもいいけど。で、どっちが好き?』
受話器の向こうから聞えてくるのは克己の楽しそうな声で、皇紀はわけもわからずちょっと考え込んだ。
「どっちって…別にどっちでも…」
『じゃあ、乗ってみたい車とか、ある?』
「…克己さん、何の話?」
『友達に雑誌の取材で試乗を頼まれてね。良かったら皇紀クンも乗ってみない?』
思いっきりあっさりと言われて、流石の皇紀も即答できなかった。確かに一度は車の運転をしてみたいとは思っていたが、そもそも今の皇紀は「存在していない」存在である。
当然のごとく免許も持っていないから、
「俺、免許持ってないよ?」
今の自分の立場は ―― そうでなければ魁と会えなかったと判っていてもたまに残念に思うこともある。それが免許の事や普通ならなんでもないような些細な事であるのだが ―― 。
だが、そんな皇紀の心情を察したのか、
『免許? ああ、大丈夫。公道じゃないから』
あっさりと言い放つ克己に、皇紀は苦笑するしかなかった。





そもそも克己がそんなことを言い出したのは、例のブライダルフェアの件で散々龍也にお仕置きされたあとのピロートークが発端だった。
「詳しい話は知らんが、『叶 皇紀』は既に死んだ事になっているらしい。今は兄の『叶 裕紀』を本人と二役やっている」
「それって…じゃあ…」
流石に散々泣かされた後だから呟く声は掠れているが、それでも優しい克己のこと。同情などと言う安っぽい感情ではなく、本当に辛そうな声になるのは気のせいではない。
『叶 皇紀』として存在できなくても、皇紀には魁がいる。だから不幸ばかりではないのだろうが、自分の存在がないと言うことは心細いに違いない。そもそも『叶 皇紀』として残せるものがないと言う事は ―― 想像するより辛い事だろうと思うから。
「だから…お前が医者として優秀だとか、免許を山のようにもってるとか自慢してやったら悔しがってたぜ」
「そんな…たいしたことじゃないのに」
免許なんてちょっと練習すれば誰でも取れる ―― と思うのは、そうして取得した克己ならではだから。幾ら車好きと言ってもB級ライセンスまではあまり取れる代物ではない。
「そういえば、咲綺さんも免許を取りたいって言ってたんだって。でも正毅さんがダメだって。なんでだろ?」
「そりゃあ、心配だからだろ?」
龍也から見て、あの咲綺なら――悪いがあまり運動神経に優れているとは思えない。それに正毅としては教習所に通わせるのも、そもそも家からだすのも不本意なのだろうと思わざるをえないところだ。
(俺だって、幾ら克己がライセンスホルダーとはいえ勝手にドライブに行ったりすれば気になるからな)
という共通点もあることだし。
だから ――
「今度、ドライブに誘ってみようかな? 一緒に車に乗らない? って」
「…それは却下」
「えー、なんで?」
「…お前に乗るのは俺だけでいい」
「はい? ちょっと…意味が違うでしょ! やだっ、もうだめだって!」
「煩い。俺以外の人間なんか乗せられなくしてやる」
そんな感じで第○ラウンドに突入したのは言うまでもない。



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「え? 何処に行くの?」
医局を出てエレベーターに向かうと、克己は躊躇いなく最上階のスイッチを押した。
当然、1階か地下の駐車場と思っていた皇紀と咲綺は驚くが、
「ん? 屋上」
あっさりそういう克己には、もはやついていくしかないようだ。
そして屋上に出て ―― やっと意味がわかって二人は唖然とする。
「あの…克己さん?」
「まさかと思うけど…?」
確かに、克己は乗り物系に強くていろんな免許を持っているとは聞いていた。
だが、聞くのと実際に目の辺りにするのは違っていて ――
「この時間の首都高は大渋滞だもん。これならそれこそ一飛びだよ」
そう言ってドアを開けられたのは、なんとヘリコプターだった。
「ホントはVTOLにしたかったんだけどね。流石にチャーターできなくって」
当然のように皇紀と咲綺は後ろの座席であるが、運転席は克己である。
「VTOLって、戦闘機だよね?」
世間的な認識視野の狭い咲綺には何のことか判らなかったが、流石に博識な皇紀はすぐに判ったらしい。だが、そんなもの日本にあるかと思うわけで、
「そうだね。あ、でも僕が持ってるのは、武器の類は外しちゃったよ。それに父さんのところに預けてるから…」
「克己さんのお父さん? 何をやってるの?」
「それはヒ・ミ・ツ♪」
そう言ってはぐらかされた皇紀であったが、後ほど調べ上げて絶句する事になるのは ―― また後の話。





そして1時間のフライトでついた先は ―― とあるサーキットだった。





「よぉっ、克己!」
サーキットの側にある離着場に降りて外に出ると、そこはまさにレース本番のような慌しさが待っていた。
といっても観客は殆どなく、いわばテストレースと言ったところか。そして克己の名前を呼んだのは、勝俣晃司。克己の高校時代からの親友で、「エンドレス」というカーショップのメカニックだった。
「昨日話してた友達を連れてきたんだ。今日は宜しくね、晃司」
「ああ、初心者だって? 任せとけ。それより、こっちの方こそ頼むぜ」
「了解♪」
軽くおどけたようにVサインを向ける克己は本当に楽しそうで、見ている皇紀や咲綺のほうまでわくわくしてくる。
辺りは耳をさすような爆音と、独特のオイルの匂い。慣れない二人には流石にキツイが、雰囲気だけでも十分興奮してくる。
そんな二人を晃司はピットに案内した。
「じゃ、お二人さん、好みの車が合ったら言ってくれ。とりあえずめぼしいのは持ってきてるから」
そう言って見せたのは、形こそは街中でも良く見かける車 ―― 但し、これでもかとステッカーで彩られている上に、かかっているエンジン音は絶対に車検に通らないと思う轟音。
「え? こんな凄い車には乗れないよ?」
流石に一歩引いてしまった皇紀もそう言うが、
「大丈夫。最初は誰でもビビルけど、車なんてエンジンがかかれば後はハンドル握ってりゃまっすぐ走るから」
「止まる時は?」
「止まらないように運転するのがレースだゼ?」
いや、それは違うだろ?と言いたいが ―― 何気に見やった克己まで、うんうんと頷いている。
「大丈夫だって、コースには信号も対向車もいないんだから」
そんなことまで言い出されて ―― だが、流石に最初から運転は大変だからと、二人は交互に克己の運転に同乗する事になった。





そもそもこの日は晃司の率いるレースチームのテストドライブの日で、本来試乗するのは晃司本人のはずだった。
それが丁度この夏の車検の事で克己が電話をしてきて、ふとテストドライブの事を話したのがきっかけである。
『いいなぁ〜。僕も久々にレースやりたいね』
本当に羨ましそうに呟く克己であるが、じゃあ来いよなんて言えば ―― 例の保護者に殴り込みをかけられかねない。
「ま、来たけりゃ構わないが…ちゃんと彼氏を説得しろよ。ヤクザに睨まれるなんて冗談じゃないからな」
と一応忠告すれば、
『やだなぁ、龍也がそんなことするわけないでしょ?』
とは、知らぬがなんとやら ―― である。
(そりゃあ、お前が気が付かないだけだって!)
と言ってやりたいところであるが、言ってもどうせ信じやしないし。
だが、
『あ…でも公道じゃないんだよね。実は免許は持ってないんだけど運転したがってる友達がいるんだ。連れて行っても良い?』
「初心者か? まぁいいが…」
とつい応えてしまったのが運のつきだった。





「じゃ、取りあえず慣らしね」
今回克己が乗ることになった車は、ラリー仕様の国産車である。
なんでも世界ラリー選手権で優勝した車種で、その記念に一般発売される特別仕様車。通常なら改造費だけでも百万を越える仕様である上に数も限定で、マニアには喉から手が出るほどの好人気と聞く。
その特別紹介雑誌の取材で、メカニックとしては業界でも有名な晃司の所に話が来たわけなのだが――ドライビングクテクニックに関して言えば、実際に克己の方が上である。
「じゃ、皇紀クン、助手席にどーぞ♪」
そう言って開けられたドアから乗り込むと、皇紀は助手席でシートベルトを絞めた。
流石にラリー用だけあってシートは身体を包み込むような作りになっている。
「シートが硬いからね。気持ち悪くなったりしたら言ってよ?」
そういう克己は心底楽しそうで。
一方の皇紀は、自分が知っている雰囲気とは全く違う車内と、車外を流れる風景に言葉をなくした。
景色が流れるというのは誇張ではなくて、見えているのは前方のみ。勿論車に乗ったことなど数え切れないほどあっても、レースの乗り方は全く違って、コーナーへのアウト・イン・アウトに2速飛びのダウンギアなどザラで。まるで平面なジェットコースターの気分である。
車内に響くのはエンジンとブレーキの軋み音。身体を包むシートからは、まるで路面の凹凸一つ一つを認識するような振動が伝わってくる。
その後、コースを3周ほどして咲綺に変わったが、二人とも降りてきたときは流石に足が震えていた。





このあとは正式にタイムを計るからということで、皇紀と咲綺は観客に回ることになった。
「何で克己が車やらの免許を取り捲ってるか知ってるか?」
ピット近くの観客席で見ていたら、ふと晃司が近づいてきて声をかける。
「アイツの母親は心臓が悪くてな。自分で走る事はおろか、歩く事もままならなかったんだ」
そんな母親の唯一楽しかった思い出は、克己の父親との最初で最後のツーリングだった。バイクの後ろに乗せてもらって感じた風の匂いだけは絶対に忘れないと微笑んでいたと言う。
「アレでもまぁ色々と複雑な家庭らしくてな。結局、母親を乗せてやることは出来なかったらしいが」
そんなことが合ったなんて思いもしなかった二人である。克己はいつもキレイに微笑んで、辛い事なんて微塵も見せる事がなかったから。
だが、
「風、か。いいね、そういうの」
エンジンノイズとオイルの匂い。だがそれはコンマ数秒を競う刹那の中にあって、何の違和感もなく一体となっている。
「そうですね。私も風を感じてみたいな」
「そうだね」
そう言って見守る二人の前で、ラップを刻んだ克己は、この日の最高タイムを弾き出していた。





「すごい…」
コンマ1秒を縮めるのも至難の技と言うのに、あっさりレコード記録を塗り替えた克己は車を降りると、全くいつもと変わらない足取りで咲綺や皇紀たちの方に手を振った。
それを見ていた2人は、
「よく…運転するときは性格が変わるって言うけどさ」
皇紀が呟く。
「克己さんって、全く変わらないよね」
「ええ、そうですね」
「そういうのも…ある意味恐くない?」
「…確かに」
実際に、慣らしとは言っていたものの乗せて貰ったときもそれなりのスピードは出ていたはず。にもかかわらず、車内の克己はいつもと変わった様子は全くなかった。
(…ある意味、克己さんってすっごいツワモノかも)
その人物の『顔』をみれば本性まで見抜くことのできる皇紀であるが、克己に関して言えばいつ見ても癒し系で和んでしまうのも事実だから、
「折角だから、2人とも運転してみればいいのに」
なんてニコッと微笑んで言われると ――
「そうだな、今度はバイクも乗ってみたいね」
なんてつい言ってしまった
「そう? じゃ、乗ってみる? 晃司、持ってきてるでしょ?」
「ああ、だがYAMAHAの1100だぞ。初心者にはちょっと重いだろ」
それにこの天気 ―― つい先日、気象庁が梅雨入り宣言をしたばかりで空はどんよりと曇っているだけでなく、時折思い出したかのようにパラパラと雨粒を降らせている。
だが、そんな天気も克己には気にかからないらしく、
「大丈夫だよ。路面濡れてる方が転んでも怪我はしないし」
「まぁそりゃそうだが…」
なんて言われては、流石に皇紀も咲綺も一歩引いてしまう。
その上、
「そもそも路面が濡れてると、ブレーキが全然利かないから、止まる心配はないよ?」
「「え?」」
何でもないようにそんなことを言われて、思いっきり青くなったのは言うまでもない。





結局この日は車の助手席だけで満足した皇紀と咲綺だったが、一応簡単な車の運転をレクチャーしてもらったため、かなりの満足だった。
「ま、あとは実地経験だけだね。いつでも乗りたくなったら言ってね。晃司には話をつけておくから」
「そうだな、今度はもう少しノーマルな車を用意してやるよ。オートマの方がいいかな?」
そう晃司に聞かれた二人は、偶然にも同じような答えを返した。
「ううん、俺はマニュアルに乗ってみたいな」
「あ、私もマニュアルがいいです」
車を思いのままに操って、シフトチェンジする手の動きの綺麗さが目に残っていたから。
(あんなふうに車を操れたら素敵ですよね)
そう、できたらそれも最愛の人と一緒に ―― なんてコトを思っていたら、
「…俺に断りもなく男と逃避行とはいい度胸だな?」
そんな地を這うような低い声が背後からかけられ、克己は驚いて振り向いた。
「あ…れ、龍也? どうしてここに?」
「お前のオトモダチから連絡を貰った。『克己が来ているが、ちゃんと外出許可は出てるのか』ってな」
「外出許可? もう、晃司ってば、僕はコドモじゃないんだからねっ!」
さっと頬を薄桃に染めて怒る克己だが、晃司としてはあとで克己の保護者に睨まれるよりは遥かにマシというもので、
「お前がちゃんと伝えとけば問題ないだろ?」
「だって! レースしたいとか言ったら、危ないからダメだって言うんだもんっ!」
「…だからって、黙って来たって絶対ばれるだろうが?」
子供のように拗ねる克己と、その克己の背後に立って、思い切り牽制しまくる龍也には頭が痛くなる晃司である。
そして更に、
「正毅さんっ!」
「あれ、魁? よく来たね?」
見れば――何故かそこにはちょっと不機嫌そうな正毅と、疲れた顔の魁がいて ――
「咲綺、車はダメだって言ったはずだぞ?」
「…渋滞は苦手なんだぞ、皇紀。迎えに来る時間が勿体無い」





そう言って迎えに来たパートナーとそれぞれ帰った3人だが、その夜のピロートークが盛り上がったのは一組のみ。後の二組は、濃厚な「お仕置き」が待っていたのは言うまでもなかった。



Fin. or Continue ?

サイト開設2周年記念に、
「wish」の皐月様に押し付けたお話です。


それでは、今後とも宜しくお願いしますv


2004.07.24. 小早川 浅葱



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