前・三度目の女神  by 栗原真(伝文殿)


誰かが、傍に居る。
その気配を眠りの中で感じていた。
だから、ゆっくりと覚醒した意識が捉えたその人物が、此処にいる事を余り疑わずに受け入れていた。
「…海馬…起こして、しまったか?」
隣に居て、手を差しのばして、髪をゆっくりと撫でていく。
暗い室内の光源はフットライトだけだ。

夢、なのか。
夢で、いい。

「遊戯…。」
呼んだ名前に苦笑する。
「俺はもう『遊戯』じゃない。」
あぁ、そうだった。呼び慣れた名前が口をついて出てしまうのだ。
「アテム。」
頷き返される。
「そう呼んで欲しい。それが、俺の名だから。」
遊戯とは別人であると、そう認識して欲しい。
「知っておるわ…貴様が、遊戯でない事くらい…」
同じだとは思えない、その魂と視線の強さ。名前ごときに拘る事などなくても、違うのだと、知っている。
「海馬…。」
視線を合わせれば。
きっと、お互い初めて見る表情だ。
嬉しさと、優しさと、満ち足りた幸福感のような。そんなものを多分に含んだ微笑みが。
どちらからともなく、唇を合わせる事を求めて行った。

これが夢だとは思えないくらい。
余りにもリアルな感触が、体を支配していく。
「んっ…」
肌を辿る指の順番さえ、覚えている。次にドコに触れられるのか、期待した場所その通りに触れてくる。
それが。
自分の記憶から引き出されている夢なのだと、知らしめているようでもあり。
けれど、それでいいと諦めすらも入り混じって。
都合の良い夢を、生み出しているのだとしても。
今だけ、少しだけ、溺れているのは許されないだろうか?
『キスしてほしい…』
心で願えば。
「海馬?」
手を止めて、体ごと乗り上げてきて。視線を合わせて、頬を捉えられる。
その背中に腕を回す。
ずっと出来なかった事。
邪魔をしていたのが、プライドなのか羞恥なのか自分でも分からない。
驚いた表情が、おかしい。こんな事くらいで、お前はそんな風に驚くのか、と。
それに、そんな優しい瞳をするのか、と。
抱き締めたい、それだけだと言うのに。
ああ、これは夢だ。
こんなに都合良く、望んだままの事があるのは、夢以外に無い。
「海馬…ずっと一緒だぜ。もう、離れなくていいんだ。」
「…本当に…?」
お前は、俺の前から居なくなってしまったじゃないか。
だから、これは夢で、お前のその言葉も、全部。自分に都合の良い夢の産物に過ぎなくて。
問いへの答えだって。
「ああ、本当だ。これからは、ずっとお前の隣に居る。
 だから…俺のものに、なってくれ。俺だけの海馬で居て欲しいんだ。」
嘘だ。だってお前は、居なくなってしまった。
だから…これは、俺の願いが、そう言わせているのだろう。
答えられなくて、抱き締める。
「本当、に?」
「あぁ。ずっと、お前と一緒だぜ。嫌だ、って言っても居てやる。」
嘘だろう、なんて聞けない。
否定してしまえば、この夢が終わりそうだ。
都合良くみている夢ならば、せめて目が覚めるまで、この嘘に漂っていたい。
「もう…お前の前から、居なくなる事なんか無い。」

何かを保証される事なんかいらなかった。けれど、奴の存在が不確かなものである事くらい承知していた。
だから言わなかった。お互い、言わなかった。求めなかった。
だが、求めてしまっていた。馬鹿らしいと思いながらも、ただ共に過ごせる事を願ってしまっていた。
明日も隣に居る。明後日も、1週間後も、1年後も。お互いの寿命が尽きるまで。
隣に居られる、その確証が欲しかった。その確証なんか、ドコにも無かった。
分かっていた。
だから、求められる事じゃなかった。

けれど、願っていた。

自分に心地よい言葉だけが降り注ぐ、そんなものは、夢以外何だと言うのか。
アイツは言わなかった。こんな、明日の約束を保証するような言葉なんて、言わなかった。

今だけ、この夢に溺れていたい。

「アテム…、キスを。」
都合の良い夢なら。この夢の中だけの真実を、誓って欲しい。
「愛してる、海馬。」
言葉と共に降りてくる唇を受け止めて。愛してる…その言葉を胸の中だけで繰り返す。
自分が見ている夢ならば、お前に届いている筈だろう?

記憶にある通りに施される愛撫に、身を任せる。今だけ、溺れたい。この夢に。
お前の腕の中で、溺れたい。
「んっ…や、焦らす、なっ…」
意地悪さもそのままに。
先程から、入り口をなぞるだけの指先が、欲しい。
「海馬?」
「中、に…」
言った事なんか無い言葉。自分から強請る、なんて。
ゆっくりと挿いってくる指が、躯の内側をなぞっていく。その感触に背筋をゾクリと這い上がるものを感じる。
知っている。これが熱に変わり、どうしようもなく求め始めるその最初なのだと。
都合の良い夢なら。
もっと。
「もっと…お前が、欲しい…」
食らい尽くし、何もかも自分のものにしてしまう程。
お前が、俺から離れられなくなる程。
「…かい、ば?」
「アテム…お前が、欲しい…。」
この夢が覚めてしまう、その前に。
お前を、貪らせて。

「あ、くっ…」
「キツイ、な…」
言い様のない圧迫感。躯の内側から押し広げられ、内側全てが支配されるかのような感覚に、耐える。
開かされた足の膝裏を掴まれて、押されながら。
更に奥へと挿いってくる、男。
その質量を感じながら。両腕を伸ばす。
見下ろしてくる瞳が、緩む。足から離れた手が同じように伸ばされる。
「ん、っ…」
「もう少し…だぜ。」
「ぜ、んぶ…」
「あぁ…っつ、もう少し、な。」
抱き合いながら、背中に回された腕が躯を引き起こした。
ずずっ、と内側を奥へと向かう衝動を感じて。
「ああっ!」
「コレ、で、全部。」
不安定な姿勢で、膝の上に居る。腰に絡ませようとしていた足を折り曲げて。
しっかりと腰を抱かれる腕に身を預けていられる事に安堵して。
両肩を掴んで、自ら腰を揺らめかせていく。
荒い吐息の合間に、口付けを交わして。
「海馬…一緒にイこうぜ?」
勃ちあがった場所に手を添えられて、背がしなるのと、腕に力が込められるのとは同時。
「あっ…んっ…アテムっ…」
しがみつくように抱き締めて。
都合の良い夢なら、こんな所で覚めるな、と。
激しくなる動きに水音が混ざる。
自ら求めて、動いているのだと知らしめるその音に、羞恥が煽られる。
それでも、止まらない。止められない。
「海馬…カワイイぜ…」
首を横に振って、そんな事言うな、と言いたいのだが。口から出てくる言葉は。
「やっ…」
追い上げられる快楽ではない。
今、コレは…自ら求めるものだ。
自ら求め、貪るのは…
「アテムっ!だ、めだっ…もうっ!」
たった1人だけなのだ。
もっと、欲しい。
身の内に遡るものを感じて、自身も放出を促される。
それでも。
もっと、欲しい。
この夢が、続いてくれたならば、目覚めないままに続くのならば。
そんな事は有り得ないと、思いながら。
相反する思いを抱えながら。
抱き締めてくる腕の心地よさと、囁かれる言葉に、堕ちていく事を望んだ。



カーテンが開かれていたのだろう。眩しさを感じて、まず意識が覚醒する。
妙な…というか、思い出せばかなり恥ずかしい夢を見た。
けれど、きっと幸せな夢、なのだろう…ボンヤリとした思考で、昨夜の夢をかなりハッキリ記憶している事に驚いていれば。
「起きたのか?海馬?」
聞こえた声に、瞼が跳ね上がる。
残念ながら、躯は動かなかった。
「ん?どうした?やっぱ、キツイか?」
ギシッと音をさせてベッドに腰掛けてきたのは…夢の住人だった、筈。
自分はまだ、夢の中なのだろうか?
「昨夜は、積極的だったもんなぁ?」
ニマリと笑う姿に、カッと、怒りと羞恥が同時に沸き起こるのだが。
明るい日差しを受けている事で気付く。
褐色の肌に、見慣れていた遊戯の体よりも幾分か高い背に筋肉質を思わせる腕。
「大丈夫か?」
触れてくる手が、昨夜のものだと分かる。
支えるようにして起こされる腕が、昨夜、自分を抱き留めていた腕だと分かる。
「…貴様、は…」
ベッドの上に座り、自分の体に寄り掛からせるようにしている、背後の男、は。
ゆっくりと腕を回し、胸元に抱き込みたいかのようにして。
「言うのが、遅くなった。…ただいま、海馬。」
耳元で告げてきた。
「…アテム?」
何をどう言えばいいのか分からずに、名を呼んでみる事しか思い付かない。
見た事の無い…いや、正確には昨夜初めて見た、柔らかい微笑みを向けられて、何故か恥ずかしい。
振り返れば。
小さく頷き返してくる。
「あぁ…戻ってきた。俺は、此処で、生きていられる。」

どうして、何故、どうやって。
そんな疑問が無い訳ではない。しかし、どの道この男の事だ。オカルトめいた事に違いは無いだろう。
それよりも、先に。
「本当、なのだな?」
「昨夜も、訊いただろ?嘘じゃないぜ。本当だ。果たせない約束をしてやれる程…俺は傲慢じゃないつもりだぜ。」
「…嘘では、ない、のだな?この場を凌ぐ、口先だけのものでは、ないのだな?」
念を押すように訊ねてしまうのは。
まだ、これを現実だと思えていないからかもしれない。
こんな弱さを、コイツに見せる等…あっていい筈無いではないか。
「そんな顔しないでくれ。嘘じゃない。その場凌ぎの言葉でもない。
 俺は、ずっとお前と一緒に居られる。一緒に、居たいんだ。」
言って、後悔しないだろうか、と考えて、その考えを否定する。
何時だって、自分は自分が信じた事を後悔なんてしてこなかった。
例えそれが幼さ故の判断であっても、その時の自分が信じて下した決断を、後悔なんかしていない。
だから、これも。
後悔なんて、しない。
「…おかえり…。」
「海馬…そんな、悔しそうな顔して言わないでくれないか?」
どうせなら、笑顔で言って欲しい所だが。
「う、煩い!言ってやっただけ、有り難く思え!」
照れ隠しなのだと、分かるから。
その証拠に。回した腕は解かれない。預けてくる重さは変わらない。
何も言えなかった、何も約束なんてしてやれなかった。
それでも、愛した。
それでも…愛してくれた。
それを、今、強く感じる。
抱き締める事しか思い付かない。今、お前を抱き締めてやれる事が、嬉しい。

「海馬…俺のものに、なってくれ。俺の…俺の、后に、なって欲しい。」
額に思いっきり衝撃を感じたのは、嘘じゃなかったらしい。
拳を握った海馬が、それをブチ当ててくれたのだ。
「誰、がっ!何故、俺が『后』になぞ、ならねばならんのだっ!
 貴様、今がどういう時代か、ちゃんと認識しているのかっ!?」
アテムの足の間で、振り向きながら怒りを振りまいている海馬は、殺気すら漂わせているようで。
「え、え〜っと…今の時代、って言ったら…俺の嫁になれ?」
「戯れ言をほざ…くっ!」
ガバッと振り向きながら体を起こして、そのまま突っ伏してしまう。
自然、アテムの体の上に落ちるような形になって、抱き留められてしまった。
「無理するなよ。」
「誰のせいだっ!」
気丈にも、顔を上げて睨み付けてくるのは相変わらずだ。
相変わらず、と思える自分に笑みが洩れる。
「何が可笑しいっ!」
「いや…うん、いいよな、こういうの。俺は、ずっと、お前とこんな風に過ごしたいんだぜ。
 だから、そうするには…俺の后になってもらうのが一番いいだろう、って思ってな。」
3000年の時代錯誤を訂正する気力が削がれるのだが。
「つまり…結婚しよう、と言っているのだろう?」
「そう言えば良かったのか?」
言葉を知らなかった、という事らしいが。
内容はともあれ、怒った自分が阿呆らしくなってくる答えだ。
「な、海馬…俺と、2人で生きようぜ。」
そう言って、抱き締める腕に力が込められていく。
動けないから。それが、心地良いからではなくて、動けないから。
言い訳だと分かっていても、その言い訳を探して、見付かるとホッとする。
「返事、くれないのか?」
胸の上で、体を預けて、瞳を閉じて、髪を梳かれている姿が返事そのものだと分かってはいるが。
「フン…まともなプロポーズも出来ん男に、返す言葉なぞ無いわ。」
憎まれ口も、相変わらずだ。
だから、今は、この重さを感じていられる事で満足する。
言葉なんて無くても。
腕の中に居てくれるお前が、何よりの答え。



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