Fugitive 01


ふわりと前髪をかきあげると、春也(しゅんや)は冷たく微笑んだ。
「こんなところにまでお待ちいただけるとは光栄…と言うべきなんでしょうかね?」
口調はあくまでも丁寧に、だが、どこか蔑んだような冷たさが漂っている。
実際に、
「ですが、今日の仕事はもう終わりです。僕とお話しがしたかったら、勤務時間にお店の方においで頂けますか? ご指名してくだされば御相手しますので」
そう言って、それ以上はいかにも興味がないというように立ち去ろうとすると、女は慌てて春也の行く手を遮った。
「そんな…春彦、私と貴方の仲じゃないのっ!」
皺一つないスーツに取りすがる女の顔は、以前の取り澄ましたものとは明らかに違っている。
今までは厚化粧と、並々ならないエステでカバーしていたのだろう。久しぶりの至近距離で見たその顔には、ある意味では年相応ともいえる皺や染みが沈着していた。
服も、前に見たことのあるブランド品ではあったがどうやらクリーニングには出していないらしく、皺や薄汚れたような気がするのは紛れもない事実だった。
だが、春也にはそんなことはどうでもいいことで。
「僕と貴女? 単なるホストと元常連でしょう? どうやら、何か勘違いをされているようですね」
「元」というところを特に強調するように言ってそう冷たく笑みを浮かべると、春也は軽く女の手を振り払い、駐車場へと向かった。
確かに1ヶ月ほど前までは、彼女は春也に入れあげて、毎夜毎夜、湯水のように大金を店に落としてくれていた大事な客であった。
だが、それも今は昔の話だ。
先日、彼女の夫が役職を利用した収賄と横領事件の疑惑で騒がれるようになってからはパタリと店にも来ることはなくなり、既に店の上客リストからは削除されている。
だが彼女は、まだ自分が春也には特別な存在だと信じていたかったようだ。
「単なるって…そんな、酷いわっ! 貴方だって、私をあんなに大切にしてくれたじゃないっ!」
そんな風になりふり構わず縋ることは、今までの彼女ならそのプライドが許さなかったところだろう。
だが、
「それは貴女がお客様だったからですよ。それ以上でも、それ以下でもありません」
必死の形相の女とは裏腹に、春也の口調はあくまでもそっけない。
そのため、
「そんな…あ、貴方のために、一体幾らのお金を使ったと思っているのっ! 主人だって、そのために横領までしたって言うのに!」
そう言って取り縋ってきた女に、だが春也の視線は冷ややかで変わらなかった。
それどころか、
「貴女が僕にかけてくれたお金の出所なんてどうでもいいんですよ。別に僕がそそのかしたわけではないですからね。でも、そうまでしてつぎ込んでくれたのならお判りでしょう? 僕はこれでもMisty Rainのナンバー1なんです。その僕を繋ぎ止めたいなら、それなりのモノが必要だってことです」
そう言うとまるで埃でも振り払うかのように女の手を引き剥がし、次の瞬間には既に興味どころか視界にも入れる気はないというように歩き出した。
ちょっと前までは店に顔を出せばわざわざ出迎えて、テーブルまでエスコートをしてくれたホストである。
それこそ大国の女王に仕える騎士のように。
元々春也は並み居るホストの中でも確かに飛びぬけた美貌の持ち主ではあったがどこかクールで冷たくて、例え上客でも浮ついた世辞は言わないという、一風変わった存在だった。
そんな気取った風にさえ見えるホストなど、本来ならこの世界ではやっていけないはずである。
だが、彼女のように自尊心の高い上流階級の人間から見れば、そういった人間ほど傅かせてみたいと思うらしい。
そのため特に金に不自由しない気位の高い女性からの指名率は却って他をぬきんでており、それゆえに指名料が跳ね上がるのは当然の結果だった。
そして一度指名すればそれを維持するために更に多額の金を春也のためにかけることになり、それで他の客達に対する自尊心を満足させていたのは言うまでもない。
だがここに来て漸く彼女は自分が最早、春也にとっては何の価値もない存在だと思い知らされた。
まさしく、金の切れ目が縁の切れ目。ホストと客なんてそれ以外に何があるのかと言われれば、そんなことは判っていたはずだ。
そもそも彼のことで知っていたのは「春彦」という源氏名くらい。
他のホスト達なら店以外でも付き合ってくれていたのに、彼だけは一緒にいてくれるのは「Misty Rain」という店の中だけで実際には本名ですら教えてもらってはいない。
それでも、まだ自分だけは特別だと信じていたかった。
春也が自分に傅いてくれたのは、お金の力ではなく自分の魅力だと信じて ――
しかし、そう信じていた春也の自分を見る視線は汚いものでも見るように冷たいどころか、全く興味すらないように無関心でしかなかった。
まるで最初から自分という存在など知らないとでもいうように。
だから、
「いやよ…貴方は私のものなんだから…私だけのものよっ!」
そう言ってハンドバックからナイフを取り出すと、女は春也に向かって走り出していた。






02


初出:2006.07.16.
改訂:2014.11.03.

Studio Blue Moon