Break Time 01


―― カチッ…
手を伸ばしてサイドテーブルに置いてあった目覚まし時計のアラームボタンを解除すると、飛島は器用に首だけをそちらに向けて時刻を確認した。
アナログ式の目覚まし時計が示している時刻は6時59分。ちなみにアラームがセットされているのは7時ジャストだ。
できることならもう少しこの温もりを味わっていたい所でもあるが、カーテンに遮られた窓の向こうからは更に飛島よりも早起きな雀のさえずりも聞こえ始めている。
あどけない寝顔は自分だけに見せる無防備な姿で、一日中見ていても飽きることはないと思う。
だがそろそろ起きて支度をしておかなければ、後で最愛の人の機嫌を損ねることも確実だった。
だから、その頬に触れるだけのキスを落として、
「起きてください、悟さん。そろそろ時間ですよ」
そう声をかけても、低血圧で寝起きの悪い悟はなかなか目を覚まそうとはしない。
そこで飛島はそっとベッドから抜けだして、カーテンを開けて部屋に朝日を取り込んだ。
真冬の空は抜ける様に澄んでいて、ピリっと張り詰めた様な空気の冷たさに包まれている。
だが、窓越しの朝日は眩しさとほんのりとした温かさだけを部屋に注ぎ込んでいた。
その日差しがベッドの上にも飛び込んできて、
「んっ…」
一瞬、眉をひそめた悟だったが、そのままもぞもぞと布団の中に潜り込んでしまった。
悟が望むのであれば、このまま寝かせておくことに否などない飛島だが、そういうわけにもいかないことは判っている。
なかなか起きようとしなかったのは悟自身だと言っても、そんな理屈は通らないのだ。
尤も、そんな我儘を言うときの悟も愛しくて仕方がないのだが ――
「悟さん…起きないのでしたら、このまま襲ってしまいますよ?」
そう低く耳元で囁くと、悟は声にならない悲鳴をあげた。
「 ―― っ!」
どうやら一気に頭まで血が回ったらしい。
顔どころか首のあたりまで真っ赤に染めた悟は、上半身を起こすや否や手近にあった枕を思い切り飛島に投げつけていた。



朝のニュース番組が7時30分を告げると、ペタペタと素足の悟が頭にタオルをかぶったままでリビングに姿を現した。
「おはようございます、悟さん」
「ん…おっはー…」
「朝食の準備ができていますよ。どうぞ」
「んー」
つい先ほど真っ赤な顔でベッドから飛び起きた悟だったが、元々低血圧で朝が本当に苦手である。
そのため、日課になっている目覚めのシャワーを済ませて出てきたところだったが、また低血圧ぶりが戻ってしまったようだ。
辛うじて頭にタオルをかぶっているもののロクに拭けているはずもなく、Tシャツの背中をぐっしょりと濡らしたままで、飛島が引いたダイニングの椅子にペタンと座ると、そのままぼーっと動かなかった。
「おやおや…そんな恰好をしていると、風邪をひきますよ?」
そう言って飛島が後ろに回っても悟は身動きする気配もない。
それどころか、かぶっているだけだったタオルで飛島が優しく髪を拭き始めると、気持ちよさそうに目を伏せた。
悟はドライヤーの熱が嫌いなので使うことはなく、タオルで拭くにしても、しっかり目が覚めている時でさえ途中で飽きてしまうほどに自分のことに関しては無頓着だった。
だから、髪を乾かすのも飛島の役目なのだ。
勿論、飛島の役目はそれだけではなく、
「今、ミルクティーを温めています」
「ん…」
「トーストにはチョコクリームでいいですか? キャラメルソースもありますよ」
「…チョコでいい」
「判りました。ヨーグルトにはジャムを入れましょうかね?」
「ブルーベリー…」
「はい、用意しています」
ぶっきらぼうな悟の物言いだが、それはまだ本調子ではないためである。
それどころか、そんな姿を見せてくれるというだけでも嬉しい飛島にとっては至福の時間にも思えて、それこそ文字通りに甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
悟の方が1歳年上なのだが、こうして甘やかして尽して世話をすることが何よりも嬉しくて ―― 勿論悟以外の人間が相手だったら、ここまで尽くすことなんて考えられないところだ。
髪を拭ってブラシをかけて、濡れたシャツは気持ち悪いだろうからと別のものに着換えさせたところで程よくミルクティーが適温になる。
「どうぞ、悟さん」
「ん…頂きます」
未だ半分寝ぼけながらも、律儀に両手を合わせて律儀に挨拶をする悟を嬉しそうに見つめながら、飛島もまた楽しい朝食を進めていた。


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小柴組との件が片付いてそろそろ一年半になる。
それはあっという間のような時間であったが、その間に悟の生活は激変していた。
その中でも最も大きかったのは、葵建設を手放して小さいながらも自分の事務所を構えたことだった。
葵建設も社長という立場ではあった悟だが、あれはあくまでも雇われ社長のようなものだったといってもいい。
信頼できる部下といえば飛島だけで、あとは小柴の息のかかった役立たずな重役ばかりだったのだ。
その小柴も消滅し、少なくとも表向きは独立していたはずの葵建設も悟達が出てしまってからは負債を抱えるようになってしまい、債権者の手に渡ったという話だった。
その一方で、高階設計事務所という看板を掲げたこの事務所は、小さいながらも自社物件であり、この夏の決算でもそこそこの黒字を計上していた。
事務所自体はメイン通りからワンブロック奥に入った住宅街の一画にあり、三階建ての店舗付き住宅を改築したものだった。
一階部分が専用事務所、二階にはビジネスにも使えるリビングとダイニングがあり、三階は完全なプライベートエリアである。
また近隣は造成されて30年ほどになるという住宅街のため日中でも割と静かでありながら、目の前には公園があるうえに、ワンブロック先には小学校と中学校、大通りの反対ブロックには高校といった、環境的にも落ち着いた場所であった。
これだけの好条件はそう簡単に見つからないものであろうが、そこは飛島のことである。
おそらくかなり前から計画を進めていたのだろう。
悟がこの事務所のことを知ったときには、住むことはもちろんいつ開業してもいい状態になっていたのだ。
相変わらずの用意周到さには、それを知っているはずの悟でさえ開いた口が塞がらないくらいだった。
だが ―― それだけ飛島が自分を大事にしてくれているということが充分嬉しかったから、悟も素直にそれを受け入れた。
但し経営は飛島に任せ、自分は設計を専門に。
そうして悟は好きな設計に専念できるようになったのだが、おかげで葵建設にいたころよりバリバリと仕事ができる環境になっていた。
その上とある建築雑誌に掲載されたことも重なり、今では全国でも名の知れた設計士になっていた。
当然仕事も多く入って来るようになり、中には他県からなどという依頼も増えていた。
しかも基本的に仕事をより好みする性格ではない悟のため、調整は飛島の担当となり、流石に多忙を極めることにもなったために半年ほど前から事務員を雇い入れていた。



時計の針が午後の3時を少し回ると、事務所の外から明るい子供たちの声が聞こえ始めてきた。丁度、小学生の下校時刻なのだろう。
「あ…もう、こんな時間かぁ」
その明るい声に気がついて顔をあげた悟は、壁に掛けられた時計の時刻を見ながら大きく伸びをした。
真剣に図面に取り組んでいたために、それだけでも体がポキポキと音を立てるかのように固まってしまっていたようだ。
それを見計らったかのように、
「お疲れ様です、悟さん。お茶にしましょうか?」
「そうだな。なんか甘いものが食べたい」
「頂き物ですが、羊羹があったはずですよ。すぐに用意しますね」
そう言って席を立つと、飛島は嬉しそうに給湯室へと向かった。
それを追いかける様に後からやってきたのは、経理事務員として雇っている三橋恵利子という女性である。
今年45歳の彼女は一見したところではごく普通の主婦といった感じであるが、建設業経理には長けた逸材である。
彼女の夫はこの事務所とも仕事で付き合いのある工務店に勤めており、また息子は飛島の弟である智樹の同級生でもあった。
「お手伝いしますね」
「ありがとうございます、三橋さん。では、羊羹を切って頂けますか? お茶は私が淹れますので」
「木村さんのところから頂いた分ですね。こし餡と粒餡がありますけど」
「折角ですから両方とも切りましょうか。田坂さんもそろそろ戻られるでしょうから、用意しておいてあげてください。ああ、私はお茶だけで結構ですので、私の分は悟さんに」
「はいはい」
正式に従業員として事務所に入ったのは半年ほど前のことであるが、以前から夫づてに話を聞いていたこともある。
相変わらずの献身ぶりにはつい、苦笑を浮かべたくなるところだ。
そこへ、
「今、戻りました! あー寒かった。朝よりも風が強くなったみたいよ」
元気な声とともに、事務所にもう一人の女性従業員が戻ってきた。こちらは3ヶ月ほど前に雇い入れたパートの田坂園子である。
以前には別の設計事務所の営業事務をやっていたというだけあり、フットワークも軽く男まさりな行動派である。
ちなみに彼女は現在36歳で小学生の双子を持つシングルマザーであるが、とても30代には見えないほどの美人であり、仕事先では悟とは姉弟と間違えられたこともあるくらいだ。
そのせいか、園子は悟の姉、恵利子は母親のように悟を可愛がるところがあるのは言うまでもなく、
「あ、そうだ。駅前で甘栗を売ってたから買ってきたの。悟君、食べる?」
「甘栗? 勿論、食べる!」
甘いものや美味しいものには目のない悟である。嬉しそうに園子から甘栗の入った袋を貰うと、早速一つ取り出して皮を剥きかけるが、
「手が汚れてしまいますよ、悟さん。私が剥いてきますから、先にお茶と羊羹をどうぞ」
「あ、そうか? サンキュ、飛島」
さも当然というように悟から甘栗の袋を受け取った飛島は更に当然のように甘栗を三等分に分けるとそのうちの二等分を恵利子と園子に渡して、残りを静かに剥き始めた。
誰もが悟を甘やかしてやまない事務所であるが、一番なのは社長の飛島であることは一目瞭然である。


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お茶の後に一仕事を済ませると、丁度終業時間になっていた。
「それじゃあ、お先に上がります」
「私もお先に。お疲れさまでした」
本当に忙しい時は仕方がないが、この事務所では極力残業はしないことになっている。
シングルマザーである園子には小学5年生の子供がいるし、恵利子にも高校生の息子がいるのだ。
母親を絶対視していた悟としては、母親は子どもの側にいてやってほしいという思いがあるため、彼女たちに残業させるなら、自分が徹夜する方がというくらいなものである。
尤も、実際に設計図を引くのは悟自身であるから、どうしても仕事に追われるのも悟であることは間違いがなく、
「お疲れ〜。気をつけてな」
そう言って二人を帰した後も、変わらず設計図と向き合っていた。
実際にはこの事務所の上の階が自分の住んでいる場所であるということもあるし、そもそも今の仕事とこの環境が気に入っているから、残業になっても全く苦ではないのだ。
それどころか、就業時間になど縛られることなく好きなだけ図面を引いていたいというくらいで、
「悟さん、そろそろ事務所を閉める時間ですよ」
そう言って飛島がストップをかけないと、それこそ平気で徹夜しかねないくらいである。
「ん…あとちょっと…」
「仕方がありませんね。では食事の支度をしてきますから…あと1時間だけですよ」
「ん…判った…」
図面を引くことは悟にとってはそれこそライフワークと言ってもいいほどに嵌っている仕事である。
他のことでは大雑把な性格であるはずなのに、こと設計に関しては一切の妥協も手抜きも許さないのだ。
小柴の傘下にいたころはなんやかやと干渉されて不本意な仕事を強いられていたのだが、その頸気がなくなった今ではそれこそ飛島が止めなければ24時間、デスクに向かうことも厭わないだろう。
「…まぁ、悟さんが楽しんでいられるならばいいのですが」
好きな仕事に充実した毎日。流石にこの時世であるから一攫千金とはいかないが、それでもまずまずの堅実な生活は保障されている。
何よりも、悟が良ければそれでいい。
世界が悟を中心として回っている飛島にとっては、こうして悟のためだけに何かをするということもまた至福の時でもあった。



仕事の打ち合わせなどで出かければ別であるが、基本的に悟は寛ぐなら自宅が一番というタイプである。
そのため夕飯も殆どがこの事務所兼自宅で取ることが多く、当然それは飛島の手料理であることは言うまでもなかった。
そんな二人きりの夕飯であるが、
「そういえば、明日の予定はどうなってたっけ?」
登記上の代表取締役は飛島となってはいるが、実務では相変わらず悟の秘書的立場をキープしている。
「明日は午後から高倉工務店の予約が入っています。二世帯住宅のお客様との打ち合わせですね」
「ふぅ〜ん、二世帯か。うん、面白そうだな」
小柴の傘下で雇われ社長のような立場であった頃も設計はやってはいたが、そのころの仕事のほとんどはビルやマンションといった大物がメインだった。
それもあれこれと圧力をかけられることが殆どで、満足した仕事などなかったといってもいいほどである。
しかしこの事務所になってからの悟は、もともとやりたかった個人向けの一戸建て住宅をメインとしていた。
特に一家団欒というものに若干の感慨を持つために、二世帯住宅などは希望するものの筆頭ともいえる。
だから、
「よし、じゃあ、今のを早く片づけて、ちょっと二世帯向けの案でも考えるか」
そう言うと、また事務所に戻って仕事を再開しようという勢いの悟である。
「今のって、まだ締切には十分時間があります。あまり根を詰めるのは良くないですよ」
「まぁそうだけど…」
そこは、好きな仕事くらい好きにさせてやりたいというのも勿論あるが、
「それでなくても、今日は一日デスクに向かっていらしたんですよ? お風呂のご用意をしておきましたから、ゆっくりつかって今夜は休んでくださいね」
そう言ってにっこりと微笑まれては、否とはいえない悟でもある。
しかも、
「なんでしたら、お背中を流しますよ? それだけではなく、体の隅々まで洗って差し上げましょうか?」
そう言ってわざとらしく腕まくりなどするから ―― 悟は顔どころか首の方まで真っ赤に染めて叫んだ。
「ば、馬鹿言ってるんじゃねぇよ! お前の場合、それだけじゃ済まないだろうが!」
「おや、お判りになっているなら早いですね」
「 ―― っ! 風呂行ってくるっ! 絶対に入ってくるんじゃねぇぞ!」
勿論、半分は冗談だということくらいは判っているが、逆にいえば、半分は本気だということだ。
余程のことでもない限り無理強いはしないが、その反面、悟をその気にさせることなど飛島にとってはたやすいことであるのも事実である。
とはいえ、翌日に仕事の打ち合わせが入っているのであれば、まずそんなことはないはずなのだが ―― 絶対にないとも言い切れないのが悟の弱い所でもあった。
だから、言いたいことは山のようにあっても言い返しもできず、フンっ!と勝ち気な顔を反らすと、どかどかとあわただしくバスルームへと飛び込んだ。
そんな悟の姿に、
「仕方がありませんね。明日も仕事ですし…週末まで、我慢しますよ」
クスクスと楽しそうに苦笑すると、飛島は何事もなかったかのように夕食の片づけを始めていた。



そうして ―― 飛島と悟のごく普通の、それでいて極上な一日が終わろうとしていた。






to be continued.




sss

初出:2009.02.16.
改訂:2014.10.25.

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