暁に見る夢 01


―― バタンっ!
目の前で無情にも閉じられた扉に、少年は転びそうになりながらも駆け寄った。
「兄ちゃんっ!」
―― ドンドン…
小さな拳が、必死になって扉を叩く。
「兄ちゃんっ! 兄ちゃんっ!」
元々、大人でも開くにはかなりの力が必要そうな、重厚な扉である。たかが子供の力では知れたもので、当然のようにびくともしない。
それでも、
「兄ちゃんを返せっ! 返せよっ!」
普段はどんなにか愛くるしい少年だろうと思える容貌だが、今、その両目からはポロポロと涙が零れている。
だが、それを拭うことさえ惜しむように扉を叩き続けて、悲痛ともいえそうな声が叫び続けていた。
紅葉のように可愛らしい手からは、うっすらと血が滲み始め、扉に染みを作っていく。
しかし、
「兄ちゃんを返せーっ!」
泣きながらそう叫んでいる少年の肩を、母の細い腕が震えながら抱きしめていた。


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「 ―― っ!」
ガバッと起き上がると、寿樹(としき)はハァハァと荒い息を吐いた。
そして一人で寝るにはかなり大きなベッドの上に身体を起き上がらせると、ズキンと痛む胸をかきむしるように押さえた。
「チっ…」
短く呟いて、忌々しそうに唇をかみ締めながら羽毛布団を蹴り落とす。すると、そこに現れたのは一糸も纏わぬ裸身であった。
細身ではあるがしなやかで、程よく筋肉がついている。
健康そうな肌は大きな傷や染みも見当たらず、さぞかし女性をひきつけそうだが、今はじっとりと脂汗を浮かべていた。
「くそっ…胸糞悪ぃ…」
店では絶対に口に出さないような悪態をつくが、聞いているものもいないはずだ。
だからそのままベッドサイドに放り投げていた煙草を取ると、寿樹は1本咥えて火をつけた。
チラリと時計を見れば、既に正午を過ぎている。
カーテンの開かれた窓からは弥生の暖かい陽だまりが部屋に届けられているが、その先に見える富士山はまだ雪を被っているのが見えた。
尤も、空調の効いたこの部屋では、例え素っ裸でいても寒くはないのだが。
シーツまでぐっしょり濡れるほどの汗をかいていたため、気持ちのいいものではない。
それに、
「…くそっ、またかよ…」
鬱陶しそうに前髪をかきあげようとして ―― 頬が濡れていることに気がつく。
いつもそうなのだ。あの夢を見たときは。
泣きながら眠るということは話に聞くが、眠りながら泣くのは自分くらいだろうと思う。
ましてやもう21歳にもなっているのだが ―― でもそれを、子供のようだと自嘲する気にもなれなかった。
それどころか、泣いたくらいで取り返せるなら、幾らでも泣いてやる
それこそ、気が狂ったかと思われても構わない。
それなのに、
「…なんでだよ…」
あの夢は、月に数回、いや、週に一度は見ているものだ。
そしてそれは今では夢であっても ―― 実際の出来事だったということは、嫌というほどに判っていた。
絶対に忘れられないあの日から、何度も何度も繰り返して見ている夢である。
そのたびに泣きながら目が覚めて、「何でいないんだ」と声に出して叫んだこともあったものだ。
せめて夢の中でくらいは、取り返すことができていればいいのに、と思う。
それなのに、現実は ―― 夢の中の世界まで、寿樹には残酷だった。
いつも繰り返すのは、あの扉が閉まった瞬間から。
だから ―― あの扉の向こうにいるはずの姿は、一度として夢には現れてくれなかった。
最後に見せた、泣き笑いのような切ない表情さえも ―― だ。
それが悔しくて、幼い頃は夢を見るたびに泣き喚いて母に抱きしめてもらっていたものだが、やがて成長してからは、それを紛らわすようにベッドの中に適当な人間を引きずり込んできた。
誰かの温もりがあれば ―― あの夢を見ることはなかったから。
だがその代りに、虚しさだけが澱のように堆積していく。
その澱で沈んでしまいそうになって、一人になれば ―― あの夢が責める。
まるで悪夢の堂々巡り。
だから現実の世界では、寿樹は享楽に耽る事に躊躇がない。
「ん?」
何気にベッドサイドの携帯に気がつくと、そこには数件のメールが入っていた。
どれも寿樹が勤めている店 ―― 浜松では名の知れたホストクラブ「Misty Rain」 ―― の常連で。
俗に言う、有閑マダムややり手の女社長ばかりだ。
そしてそのメールの内容も、今日の予定や夕食の誘いばかりで、
「とりあえず、シャワーでもするか」
そう誰にとでもなく呟いてベッドから降りると、寿樹は汗を吸ったシーツを引き剥がし、それを引きずるようにしながらバスルームへと消えていった。






02


初出:2007.07.07.
改訂:2014.10.05.

Paine