Tears 01


満開の桜の木下で、あの人が膝を抱えていた。
優しい春風に、桜の花びらがゆっくりと舞い落ちる。
花びらが一枚、あの人の肩に落ち、再び風に流されていく。
細くて華奢なあの人の肩が、わずかに震える。
僕は知っていた。あの人が声を押し殺して涙を流していることを。
でも僕にはそれを誰かに言うこともできなくて。
ただ見ているしかできなかった。





正門前を埋め尽くしていた人だかりの中心で、その生徒はにっこりと微笑んだ。
「すみません、先輩方。折角の御誘いなんですが、僕、野球はしないんじゃなくて、もう出来ないんです」
一瞬、騒々しくヤジを飛ばしていた連中までもがピタリと息を潜めた。
「一昨年の試合で肩を壊しちゃって、イギリスまで行って手術したんですけど、結局治らなかったんです。だから、野球部に入れて頂いてもも選手としてはお役にたてません。折角誘っていただいたのに申し訳ないんですが…」
その生徒は言ってる内容の壮絶さも感じさせず、微笑みながらぺこりと頭を下げた。
「そういうわけですから、入部の話はなかったことにしてください。皆さん、お騒がせして済みませんでした」
それだけ言うと、彼はゆっくりと正門を出て行った。
残された連中は、バツの悪さを隠し切れない。特に散々ヤジを飛ばしていた連中など、まるで逃げるようにこそこそと散っていく。
―― 元エースだかなんだか知らないが、いい気になるなよ。
―― そうだ、お高くとまってるんじゃねぇよ。
―― たかが一年の癖に、中学と高校じゃあランクが違うんだよ。
勝手に入部させようとして断られた腹いせに、散々悪態をついていた連中である。あの一年生の断った理由に気まずさを感じたのは言うまでもあるまい。
そんな様子を、五十嵐尚樹は生徒会室の窓から眺めていた。
「なるほど…ね。まぁ、そうだろうな。そうでもなきゃあ、リトルリーグの元エースが、うちみたいな弱小野球部しかない高校になんか入学するわけがないよな」
同じく窓際でその様子を見ていた永森慶一郎が呟く。
「で、生徒会長さんはやっぱり知ってたわけ?」
慶一郎の問いに、尚樹はパソコンの電源を入れながら答えた。
「今、お前が言っただろ? 本来ならうちに入学するようなやつじゃないって。だからちょっと調べただけだ」
「なら、野球部に言ってやればよかったのに。あれじゃあの一年が可哀想だぜ?」
「気が付かない野球部の連中が馬鹿なんだ」
尚樹は吐き捨てるようにそういうと、慶一郎のことなど気にもとめないようにパソコンに向かった。



翌日、校内にはある噂でもちきりになっていた。
「祐介、昨日は大変だったんだってな」
登校する途中からなんとなく周りから見られている感じがしていたが気にせず教室まで来ると、同じクラスの川原郁巳が話し掛けてきた。
「何のこと?」
訳がわからず、祐介 ―― 唐沢祐介が聞き返す。
「また、とぼけちゃって、ほら、昨日の帰り、正門のところで…」
一瞬、鞄から教科書を出していた手が止まる。しかし、すぐになんでもないように授業の仕度を再開した。
「あ、あのこと? 何で知ってるの?」
「マジ? お前…みんな知ってるよ。今日はそのことで学校中が大騒ぎなんだぞ」
「何で? そんなに大騒ぎになるようなことじゃないと思うんだけど?」
とぼけているというよりは、全く心外といった表情で祐介は首を傾げた。
入学式が終わって約十日。そろそろ高校生活にも慣れ、部活や委員会に入って活動を始めている一年生も多くなっている。
そんな中、祐介は特に何もせず、定時に登校して定時に帰宅するという毎日を続けていた。それが昨日は、野球部に捕まり、なぜ入部しないのかを散々問い詰められてしまった。
唐沢祐介(1D)。
父親は高名な弁護士で母親は映画女優の工藤繭美の一人息子。
一年間イギリスに留学経験ありの帰国子女というのは、確かに普通の学校なら騒がれるところであるが、この桜ヶ丘学園ではそんな生徒はざらにいる。
自称、身長一六○センチでまだ子供っぽい小柄な体格に、明るい茶色の髪、母親似の大きな瞳と、どちらかというと女顔系であるが、なよなよとした雰囲気は一切無い。
愛想もよく、まめな性格なので女の子の受けはいい。
入試の成績は中の上といったところで、いわばごく普通の高校生として過ごす筈だった。
しかし、実は ――
二年連続リトルリーグ全国優勝チームのエースピッチャー。
一昨年の決勝戦で完全試合を達成。
最優秀選手賞受賞、全日本ユースチームに選抜経験あり。
別に自分から公表したわけでもなかったのにどこからかその情報が野球部に入ったらしく、先日から再三の勧誘が来ていたのは事実である。
しかし、部活は自由参加ということで祐介は断りつづけ ―― 昨日、とうとう帰宅途中に野球部に捕まり、あの大騒ぎとなっていた。
尤も、当の本人は大騒ぎとも思っていなかったが ―― 。
「だって、しょうがないじゃん。投げれないピッチャーなんて、使いもんにならないんだから」
過去の栄光はともかく、今は戦力外以外の何者でもないことは事実である。祐介としては言いたくなかったのも事実であるが、余りにしつこいのでカミングアウトしたに過ぎない。
(仕方ないじゃん、やりたくてもできないんだから…)
ところが、ことはそれだけですまなかったらしい。
「まぁそうだけど、それだけじゃないんだって。なんでも昨日の件で野球部が生徒会長の逆鱗に触れて、今度の総会で予算大幅カットになるらしいんだって」
「何それ、どういうこと? ちゃんと説明してよ」
祐介は郁巳に詰めより、話を聞き出すと授業も構わず教室を後にしていた。






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初出:2003.03.21.
改訂:2014.09.28.

Silverry moon light