Tears 17


五十嵐病院の前でタクシーを降りると、そこには慶一郎が待っていた。
「尚樹センパイは、大丈夫ですか?」
郁巳に引きずられるようにタクシーから降りた祐介は、どこか呆然としている。
まるで人形のように郁巳に連れまわされ、その表情には血の気がなかった。
「今、手当をしている。何針か縫うことになるみたいだ」
「何があったんです? 教えてください」
若干焦り気味とはいえ、郁巳の声は落ち着こうとしているのがわかる。
しかし、祐介は?
白く青ざめた表情に、全く生気を見せない空ろな瞳。まるで人形のようというよりは、人形そのもののように存在感が薄かった。
いつ倒れてもおかしくないというような祐介のため、慶一郎は待合室の一画に二人を座らせた。
「名取に刺されたってのは、和行から聞いたな? 今朝のニュースのことも知ってるだろ? あれを名取は尚樹の仕組んだことだと思い込んだらしい。まぁ、事実、そうなんだけどな」
「でも、尚樹センパイらしくないよ。刺されるなんて…。そんなドジ踏むとは思えない」
尚樹を知っているが故の郁巳の反論である。
尚樹は空手と合気道の段持ちで ―― どんな有段者でも隙をつかれればケガをする事だってあるだろうが ―― 冷静沈着を売り物にしているような人物である。
それが、何故 ―― ?
その理由は慶一郎が伝えた。
「ドジじゃないさ。わざとだよ。わざと避けなかった。何でか判るか?」
呆然と宙を見ている祐介に囁く。
「確実にヤツを、君から遠ざけるためだよ。今回の件は、全て君のために尚樹が仕組んだんだ」
「ぼく…のため?」
「そう。あいつなりのラブコール。かなりひねくれてるけど、それだけマジってことさ」
診察室のドアを眺めて、慶一郎はゆっくりとため息をついた。



祐介の頭の中では、慶一郎に言われた言葉が渦のようにゆっくりとリフレインしていた。
―― ドジじゃないさ。わざとだよ。わざと避けなかった。何でか判るか?
―― 確実にヤツを、君から遠ざけるためだよ。
―― 今回の件は、全て君のために尚樹が仕組んだんだ。
以前から、名取のことは目に付いていたとも言っていた。
しかし、学園内では特に問題を起こしていなかったことと、父親が末端とはいえ伯父の派閥であったということで放置していたというのが事実である。
そのために、図に乗った名取が思い通りに行かなかった祐介に対して危害を加えたということが、尚樹には許せなかったらしい。
「危害って…そんな、僕、知りませんでした」
球技大会でのケガにそんな理由があったなんて ―― そんなウラがあったことは、祐介は全く知らなかった。
皆が心配してくれていたのは判っていたが、そんなオオゴトだったなんて…。
「だろうな。尚樹が口止めしてたからな」
祐介がこのことを知ったら、おそらく名取に謝りに行くだろう。
自分が悪いわけでは決してなくても、それでいやな思いをする人がいるということが、祐介には我慢できないだろうから。
だが ――
「あいつはさ、君が名取に会うこと自体が許せなかったんだよ」
全く、わがままなヤツだよな、と苦笑する。
そんなに大事なら、さっさと掻っ攫ってしまえばいいのに。いつもの尚樹なら、絶対そうするはずなのに。
それを、祐介の悲しむ顔が見たくないからなんて ―― 。
(それだけマジってことか? あの尚樹がねぇ〜。唐沢も苦労するだろうな)
今まで克己一途だったことはこの場にいる殆どの人間が知っている。
そしてそれが、一種の憧れに近い ―― たとえば、アイドルに恋する ―― ものだと言う事も。
だからこそ、あれほどまでに独占欲の強い尚樹が、今まで手を出す ―― 行動に出さなかったということも。
今後は、その独占欲が祐介に向けられるのは必定であろうが、逆にあのタイプは惚れた相手にはとことん甘いものだという感じもしないでもない。
「まぁ、アイツみたいなタイプは、唐沢みたいに可愛いタイプがお似合いなんだよな。保護欲丸出しじゃん」
「それ、すっごく言えてると思いますよ。でもって、結構、祐介みたいなタイプじゃないと、着いていけないんですよね」
「そうそう、普通、あそこまで干渉されたら、息苦しいもんな」
なぜか、慶一郎と郁巳が盛り上がって話しこんでいる。
一方の祐介は余りのことで何がなんだかわからなくなっていた。
だから、診察室のドアが開いたときも、ただ呆然と見ているだけだった。
診察室から出てきた尚樹は、いつもと変わらぬ態度でその場にいた連中を見回した。そしてその中に祐介の姿を見つけると、鋭い視線で慶一郎を睨み付けた。
「…余計なことは言ってないだろな?」
視線で威圧するとはよく言ったものであるが、慶一郎にはそれが、半分は照れ隠しであることがすぐにわかった。
「余計なことって? たとえば、唐沢のためなら腕の一本や二本、怪我しても平気だとか?」
「永森!」
確実に名取を学園から追い出すため ―― それには退学に追い込むのが手っ取り早いと、自ら囮になった尚樹である。
そのために、新宿でも警察の巡回コースである花園神社を選んで名取をおびき出したのだから、知能犯としか言いようがない。
「ほら、お前からちゃんと説明してやれよ。心配で声も出ないんだから」
そういって祐介を尚樹の前に押し出すと、慶一郎は、郁巳の首根っこを捕まえて、
「はいはい、お邪魔虫は退散するぞ〜」
「ええっ? これからイイトコなのに…尚樹センパイ、祐介を泣かせないでくださいよ」
そういって祐介だけその場に残し、病院をあとにする。
(永森に郁巳のヤツ…あとで覚えてろよ)
尚樹は立ち去る慶一郎の背中を睨み付け、ふと祐介に視線を動かした。
「祐介…?」
一方で残されてしまった祐介は、尚樹の姿を見た瞬間から、ある一点に視線が釘付けになっていた。
腕に ―― 尚樹の左腕に巻かれた白い包帯。名取に刺されたという痕。
その視線に気が付き、尚樹は今までに見せたこともないような優しい表情で祐介を見た。
「永森に…何か言われたらしいな? 気にしなくていい。お前のせいとか、そんなことではないから」
「でも!」
「違うんだ。俺が勝手にやったことだ。だが、心配してくれたみたいだな。すまなかった」
実際に、怪我といってもかすり傷である。郁巳が思っていた通り、いつもの尚樹なら十分よけれたのだが、確実に傷害事件にするためにはキズが必要だったのだ。
むしろ、一番の重症だったのは今日買ったばかりの参考書 ―― 尤も、それは元々盾に使うつもりで買ったのだが ―― である。
「いいえ、そんな…」
少し潤んだ瞳で尚樹を見上げる祐介の瞳に、今度は尚樹のほうが釘付けになった。
祐介の、母親似の大きな瞳からはぽろぽろと真珠のような涙が溢れていた。
声を上げるでもなく、ただ涙が頬を伝っていく。その余りの綺麗さに、尚樹はそっと顎に手をかけた。
「結局、また泣かせたな…」
尚樹の前で祐介が泣くのはこれで二度目である。
そっと頬に流れる涙を指で拭うが、涙が止まることはない。
「泣かないでくれ…頼むから」
「すみません…止まらなくって…」
「仕方がないな」
慈しむように苦笑すると、尚樹は祐介の瞳に口付けた。そして、驚いて目を見開いて見上げる祐介に囁いた。
「お前…俺を殺す気か?」
「え?」
何のことかわからない祐介は、いつの間にか尚樹の腕の中にいることも気が付かず、ただ見上げている。
そんな祐介を、尚樹は大事そうに抱きしめた。
「俺は ―― 他のヤツなら泣こうが喚こうが一向に構わないが、お前に泣かれるのだけは堪えるんだ。お前を泣かせるヤツを許せない。それなのに、お前が俺のせいで泣いてるとしたら、俺は俺を排除しなくてはいけなくなるだろ?」
抱きしめた腕に力が入り、祐介の身体が尚樹の腕の中に納まる。
「逃げるなら今のうちだぞ? もっとも逃がすつもりはないが…」
真剣であっても、とても優しい表情で見つめる尚樹の胸に、祐介は夢中でしがみついた。しがみつきながら、尚樹を見上げる。
縋るような瞳からは止め処もなく涙が溢れ、尚樹の胸を濡らす。その温かい感触に尚樹は酔いしれていた。
「お前の…涙は温かいな。これからは、俺の腕の中以外では泣くなよ」
そして、コクンと頷く祐介の両頬を包み込むと、
「好きだよ、祐介。お前は?」
そう尋ねて ―― 答えを聞く前に口付けていた。






Fin.




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初出:2003.05.07.
改訂:2014.09.28.

Silverry moon light