自覚 01


オリエント一の富裕を誇るエジプトは我が世の春を謳歌していた。
唯一の懸念は、現国王アクナムカノンが病床に伏せて長いこと。
だが、国政が滞ることは微塵もなく、全ての民はこの平安が続くものと信じていた。
一部の、不穏の輩を除いては ――





「…以上を以って本日の朝議を終了する。皆の者、大儀であった」
この場では最年長であり 王の名代でもあるアクナディンがそう宣言すると、ざわざわと官僚、高官達が席を立った。
その中で、最も年若いセトが目の前に積み重ねられた書類をチラリと見ると、大儀そうに席を立った。
その量は他の者たちから比べれば倍以上の量であり、それなりに重要な案件ばかりであることは判っている。
しかもそれは ―― 本来であれば、ここに出席していなければならない重要人物が任されるべきはずのものが大半で。それだけに苛々も募るというものだ。
しかし、
「あらあら、随分と書類が溜まっているようですわね。お手伝いしましょうか?」
この中で唯一の女性であるアイシスがそう声をかければ、セトは無表情に応えた。
「結構だ。貴様に任せて、ただで済むとは思えん」
一応は同僚 ―― だが、年齢も上であればこの地位についたのも先のアイシスである。
それでもセトの態度には遠慮や謙虚などというものは微塵もなく、寧ろけんもほろろな口調であった。
セトもアイシスも、エジプトの神官では最高位に当たる六神官の一員ではある。
だが、後宮の影の支配者とも言われているアイシスにこのような口調で答えて無事でいることができるのは、このセトしか存在しなかった。
というか、こんな口調を使うことは、アイシスの実弟ですら恐れてしないというもので。
それだけに、近くでその光景を見ることとなった他の官僚たちは、賞賛と畏敬の念さえ浮かべて二人のやり取りを見入っている。
だが、そんな周囲の思惑など、この二人には関係がないようだ。
「まぁ、信用のないこと。ですが、どうしても終わりそうにないようでしたら、声をかけてくださいな。セトの頼みでしたら、格安でお受けしますわよ」
勿論そうは言っても、セトが誰かを頼るなどありえないことだ。
だから、
「フン、貴様の暇つぶしに使われることなど御免蒙るわ」
そう言ってスタスタと退出するセトを見送ると、
「オホホホ…またセトの怒鳴り声が響き渡りそうですわね」
そう楽しそうに微笑むアイシスに、取り巻く他の者達が別の意味で顔色を変えたのは言うまでもない。



すれ違う警備兵や役人が頭を下げて道を譲る中、セトはブツブツと文句を呟きながら先を進んでいた。
「全く、あのバカ王子め…」
今日の朝議のことは昨夜のうちに王子にも伝えていたはず。だが、くれぐれも遅れることのないようにとまで言っておいたはずなのに、肝心の王子は姿を見せなかったのだ。
「やはり、マハードのようなボケに王子の見張りを任せたのが間違いであったわ」
昨夜は、今日の朝議に間に合わせなければならなかった書類の片付けもあったのでセトそちらに付きっ切りとなり、仕方がなく幼少からの目付けでもあったマハードに任せたのである。だが、考えてみれば長年王子に良いように振舞わされているマハードに、制御ができるはずなどない。
まぁおそらくはこうなるだろうと予測はしていたが、当たって嬉しいことは全くない。
―― バタンっ!
そんな怒りをぶつけるかのように王子の執務の間に戻ると、セトは広い机の上に持ってきた書類を並べだした。
多くは、友好関係を結んでいる諸外国からの交誼の親書で、外交儀礼上のものが殆どである。
その中から、幾つか複雑な内容なものだけ別にすると、チラリと壁側に置かれた壷に視線を向けた。
丁度外庭に面したバルコニーの側に置かれた、大人の身の程もある壷である。本来は緊急用の水を蓄えておくべきものであるが、
「…で、いつから王子は壷を寝床にすることにされました?」
「いや、その…もう朝議は終わったのか? ご苦労だったな」
気配は消していたはずなのに、セトには部屋に入った瞬間から気づかれていたようだ。
ツボからひょっこりと顔を出したのは、燃えるような赤い髪のセトより更に若い王子、ユギであった。
セトとは対照的ともいえる褐色の肌に、赤い瞳。初めて出会った頃よりは遥かに精悍な顔つきにはなったと思うが、まだまだやることは子供のままだ。
「おや、朝議のことは御存知でしたか。私はてっきり、マハードがお伝えするのは忘れていたかと思いましたが」
「いや、聞いてはいたんだ。ただ、その…ちょっと寝過ごしてな」
「そうですか。まぁ壷の中でしたら、さぞやゆっくりお休みになられましたでしょう。使いの者も、まさかそのようなところでお休みとは思いませぬから、妨げる者もおりませんでしたでしょうし」
口調はあくまでも慇懃丁寧に。だが、内心ではかなり怒っていることは目に見えている。
(怒って…るよな、やっぱ…)
尤も、怒鳴られるのも今では日常茶飯事のことで、それがちょっと嬉しいというのも嘘ではない。
何せユギはこのエジプトの世継ぎの王子。誰もが見え透いたおべっかや腫れ物を扱うような態度で接する中、本気で怒鳴ってくるのはセトだけである。
唯一、ユギを王子としてではなく、一人の人間として扱ってくれる存在。
友と呼ぶだけでは物足りない。
だが、そんなユギの感慨などセトには微塵も関係ないようで、
「…で、己はいつまで寝とるか、マハード!」
ユギが隠れていた壷の傍らで寝倒れていたマハードを踏み起こした。
「ふぇ? あ、おはようございます、セト。今日もいいお天気で…」
「寝ぼけている暇があったら顔を洗ってこい! 貴様にはこちらの返書をやってもらうぞ、マハード。但し、下書きだけで良い。清書は王子が自らお書きなられるからな」
そう言って机の上に山積になった親書を示せば、流石にユギも顔色を変える。
「って、おい、セト。ちょっと待て。こんなにやれっていうのか?」
「大した量ではありませんでしょう。昨夜は精々羽を伸ばしておられたようですからな」
勿論それはここ数日サボっていた付けであることは判っている。
しかも、
「そうそう、期限は今日の夕刻まで。終わるまでは食事もお控えいただきますが、勿論、構いませんな?」 
「ええっー! それはないぜ、セト! 俺だって、帰って来たのはたった今なんだぜ?」
と、つい口を滑らせれば、
「…ほう、どこからお帰りになったのですかな?」
ピクリと、セトのこめかみ辺りが引きつったような気がしたが ―― 気のせいではなさそうだ。
「えっと、それは…」
「この…たわけっ! 少しは王子としての自覚を持たぬかっ!」
そうしてセトの罵声が王子の執務室から響き渡ることが、ここ数年の日課であることを誰もが苦笑とともに認めていた。






自覚 02


初出:2008.01.06.