白竜降臨 Prologue


「王国」から帰って来て一ヶ月 ―― モクバは言い知れない不安に怯えきっていた。
自分自身より遥かに大切で絶対の存在である兄は、以前より随分と優しくなった気がしていた。
そのこと自体は何の問題などあろうはずもない。
なるべく時間を作って食事を一緒にしたり、学校での出来事を聞いてくれたり。
それは普通の兄弟ならなんでもないことであって、何をと言われるようなものかも知れないのだが ―― それが海馬瀬人となれば、特別である。
未だ現役の高校生でありながら、今世紀最大といわれる「ソリッド・ビジョン」の開発者。
軍事企業から見事な転身を遂げた海馬コーポレーションの若き総帥。
そして、「カードの貴公子」とまで言われた、M&Wの天才デュエリスト。
しかし ――
「兄サマ…」
童実野町で最も豪奢な海馬邸。その当主たる瀬人の自室にやってきたモクバは、そのあまりに殺風景な部屋に思わず身震いをした。
既に外は漆黒の闇に包まれた深夜で、ウィークディであるから小学生であるモクバには明日も学校がある。
それは同じように高校生である瀬人も同じことのはずであるが、
『先ほど、瀬人様からご連絡がありました。本日もどうしても抜けられない会議があるため、帰りが遅くなるので、先に休んでいるようにとのことです』
そう言いにきた家政婦頭の滝山の言葉は覚えている。
それは別に今日が初めてのことではなく、寧ろほぼ毎日がそうであることは間違いない。
だが、どんなに帰りが遅くても、朝はモクバより早く起きてほんの僅かな時間でしかなくても顔をあわせるようにしてくれて。
忙しい時間だというのに、自分を気にかけてくれるのは、心から嬉しいのも事実。
しかし、一時期ビジネスから離れていたために、失った信用を取り戻し、更には次世代デュエルディスクの開発などと多忙を極めている兄が、自分では気がつかないほどの無理をしていることは見ているこちらの方が痛いくらいに判っていた。
幼い頃に誓った夢を適えるためだということも判っている。
怠惰や適当になどと言う言葉とは無縁の人となりで、何事においても己の持ちうる力を最大限に発揮しなくては気がすまない性格だということも判っている。
それでも、己の心や身体が上げている悲鳴には、きっと気がつくことも許さない兄サマだから ――
「せめてオレがもう少し、大きかったら…」
一応、モクバも海馬コーポレーションの副社長という肩書きではあるが、その業務は兄と比べれば格段と優遇されている。
義務教育中という名目でモクバは基本的に学校を優先とされ、余程のことがない限りは「仕事」で休むスケジュールも組まれることはない。そのため、当然その分の業務は瀬人の負担となることは明らかである。
勿論、それを負担と見せるような瀬人でもないのだが ―― そこは兄弟である。無理をしているかどうか位なら、幼いモクバにだって痛いくらいに判っている。
尤も、それを訴えても、聞き入れてくれる兄でもないだろう。
(オレじゃあ、ダメだ。兄サマを休ませてあげられるのは…)
唯一、兄が認めている人間といえばあの武藤遊戯くらいであろうが ―― 遊戯に頼むことはモクバとしてもどこか腑に落ちないところがある。
とすれば、あと考えられるのは ――
瀬人の自室のデスクの上には、「王国」から帰って以来、まるで封印でもされているかのように主に触れられていないデッキが眠っている。そのデッキから、何気に三枚をめくれば、
「…ブルーアイズ…」
そのカードは兄にとっては唯一無比の存在で、逆境のときには必ずと言ってもいいほどにフィールドに現れる絶対のしもべ。
いかなるときも兄の側にあって、まさしく半身ともいえる存在で ――
「お願い、ブルーアイズ。兄サマを守って…」
そう祈りを捧げるように願うと、モクバは三枚のしもべを表に並べて、そっと部屋を後にした。






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初出:2006.11.20.
改訂:2014.09.20.

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