Fugitive 26


ざっと報告書に目を通すと、既に時間は『Misty Rain』の閉店時間を過ぎていた。
どうやら客のほうは全て帰したようだが、フロアの片づけやら何やらで若いスタッフたちは残っているようだ。
それにメインのホストたちも仕事が終わってホッと息を抜いている頃で、照明だけは片づけがしやすいようにと明るくされた分、とても深夜とは思えない雰囲気になっていた。
そんな折、
「失礼します、若。少々、お耳に入れたいことが…」
そう言って裕司のいた支配人室顔を出したのは、片岡組若頭の大前だった。
年齢も組における階級も裕司より上であるが、そもそも裕司は次期組長に決定している身である。
それに、元々大前は裕司の補佐的な立場にあったこともあり、どうしても口調が改まるのは仕方のないことだ。
尤も、そのくせ言うべきことはしっかり言ってくれる男でもあるため、裕司自身も右腕と思うほどに信頼しているのも事実である。
そんな大前が幾ら組での付き合いもあり知らない人間ではないとはいえ、仮にも来客中のところを邪魔するというのは、ただごとではない。
咄嗟に裕司の脳裏に浮かんだのは、幸斗の不安気な表情で。
しかし、
「どうした? 何かヤバイことか?」
まだ部屋には柊平が残っていたが、裕司は気にせず問いかけた。
すると、大前もこの件については柊平も話を聞いているということを知っていたため、
「はい、例の金光組の件です。どうやら、あちらは先日の件を懲りていないようで、茂木保之が手下の若い連中を数人、再びこちらに差し向けたようです」
そう告げると、その辺りは想像していた裕司は、小馬鹿にしたような苦笑いを浮かべた。
「フン…だろうな。あの茂木とか言う男、寿樹にやられたのがかなりご立腹のようだったじゃないか」
実際に裕司は寿樹が保之を叩きのめしたところを目撃している。
保之は縦にも横にも寿樹を遥かに凌駕する体格であったのだが、刃物までちらつかせながら傷一つ負わせることができなかったのだ。
しかも保之のほうが途中からは本気で殺すつもりでいたというのに、寿樹のほうは遊びが半分 ―― いや、八割といってもいいほどで。
腕っ節を自負していながらやられたほうとしては、面子どころか存在意義に係わるほどの結果だったことだろう。
勿論、少し頭が回るならば二度と歯向かわず、係わり合いになることを避けて体裁を取り繕うところであろうが、どうやらそこまでの思考力など無かったようだ。
「狙いは寿樹か? それとも、幸斗の方も掴んでいると思うか?」
「それはなんとも言えませんが…あわよくば両方と本人は思っているところではないですか?」
「フン…懲りないヤツだな。だから馬鹿は嫌いなんだ」
前回は向野の顔を立てて見舞金だけで事を収めた片岡組である。
だが、また同じことがあれば、今度はそうはいかないということは明らかだ。
ヤクザの世界では、シマ荒らしは最大の面子潰しとも言われるところである。
そのため、こちらとて事を大きくしたくはないと言っても、次に同じようなことがあればそれなりの制裁をせざるを得ないのだ。
そしてこの場合、どう見ても非は金光組側にあるのだから、茂木は自分で自分の首を絞めるようなものである。
「茂木っていうのは、そこまで馬鹿なのか?」
「父親のほうはそれでもまだ年の分だけ頭があるかもしれませんが…息子のほうはどうしようもないようですね。まぁそれをいいことに、裏で糸を引いているヤツがいるようでもありますが」
「成程…」
馬鹿は馬鹿で使いようがある。それは裕司にもよく判ることだ。
ましてや金光組は一枚岩の組織とは言いがたいことは明白であるから、裏で手薬煉を引いているやつがいるのは間違いないだろう。
ただ、その黒幕に向野が入っていないことだけは確かであった。
あの男は、もし片岡組と事を起こすつもりであれば、そんな姑息な手は使ってこないだろうという妙な確信がある。
そのことは大前も同じ意見だった。
「とはいえ、こっちにとばっちりがくるのは避けたいな」
ましてや、「Misty Rain」は客商売である。問題が店だけでなく客のほうにまでともなれば、その打撃は確かに痛い。
「とりあえず、うちの警備部から何人か回してこの店とホストのNo.5までと先輩…店長の身辺を警備させろ。寿樹は心配要らないと思うが、もう暫く休ませる。説明だけはしておけ」
警備部というのは、片岡組が表企業として持っている警備会社のことである。
ここのスタッフは当然体力や腕力には実績があり、更にはきちんと考えて行動できる選りすぐりを極道から足をあらわせて配備していた。
だから、
「ああ、そうだ。警備部には、誰が見ても警備しているのが判る様にと伝えておけ」
と言われれば、それ自体が牽制になるということを理解するはずである。
「判りました。すぐに手配します」
そうして裕司の指令を受けた大前が部屋を出ていこうとすると、丁度入れ違いになるように、ここの店長である弘明が顔を出した。
「あ、お話は終わった? そろそろお店を閉めるんだけど…まだ使う?」
本来であればこの支配人室は弘明が使用すべきところである。
だが足の悪い弘明は二階にあるこの部屋よりも下のモニター室のほうが楽だからと滅多に使わないので借りていたのだ。
それを思いだした裕司は、
「いえ、もう済みました。ああ、そうだ、先輩。折角なんでマンションまでお送りしますよ。柊平、お前も送ってやるから、春也を呼んできてくれ」
「え? あ、はい。いいですよ。ちょっと待っててくださいね」
そう応えてニッコリ微笑んだ柊平は、裕司の意図するところを薄々感じて楽しそうに階段を下りていった。






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初出:2006.10.22.
改訂:2014.11.03.

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