Fugitive 29


ふわりと宙に身体が浮くような感覚にも全く不安など見当たらなくて。
ただ自分を支えてくれる温かい腕の温もりに全てを委ねていた。
『大丈夫。俺が護ってやるからな』
その一言だけで、どんな辛いことも悲しいことも消え去ってしまう。
まるで今までの全てが一夜の悪夢のように。
いや、こちらの方が夢かも知れないけれど、それでも構わないと思える安心感。
『おやすみ。いい夢を見ろよ。できれば…俺が出てくるのがいいな』
そんなことをちょっと照れくさそうに囁いてくれるから、それこそ自分の望みだと告げたくて。
(ええ、貴方の夢を見たいです。きっと…)
そう願いながら、まどろみに身を委ねた ―― 。



「ん…?」
初夏の日差しを感じて、眩しそうに布団に潜り込もうとした。
しかし、
「おっと、悪い。起こしたか?」
それこそ不意に甘い囁きが耳に届いて、幸斗はハッと目を開けた。
「悪かったな、昨夜、カーテンを閉めなかったから…眩しかったか?」
目の前には広くて逞しい胸があって、優しい声は直接耳に囁いてくる。
いや、それどころか ――
「え? あ…ええっ!?」
吃驚して見上げると、そこには幸斗の前髪を弄っている裕司がいた。
しかも ―― 幸斗の頭の下には裕司の腕があって、その先は細い幸斗の肩を優しく抱きしめている。
「あ、な、なんで、え?」
余りのことに慌てた幸斗だが、一方の裕司は余裕なものだ。
「あ、別に夜這いに来たわけじゃないぞ。リビングで寝てたから、こっちに連れて来てやっただけだからな」
そう言ってクスクスと笑いながら前髪を弄られると、幸斗は益々頬を真っ赤に染めていた。
言われてみれば、確かに昨夕は洗濯物の片づけをしてからの記憶がない。
漸く身体も普通に動けるようになり、ただ置いてもらうのが申し訳ないと思っていたから、ここ数日は家の中でできる家事にいそしんでいた。
尤も、春也もあまり散らかすタイプではないので片付けといっても大したことはなかったが、それでも普段手の届かない掃除場所はあるものだ。
だからまるで年末の大掃除のようだと思いながらも結構楽しんでそんなことをしていたのだが、特に昨日はその前夜の春也の帰りが遅かったこともあって、夕方には流石に睡魔に勝てなかったのだった。
ちょっとだけ、ほんの少しだけ眠って起きようと思っていたのに、どうやら本格的に寝入ってしまっていたようで。
それを裕司が運んでくれた、ということなのだろうが ――
「いや、俺もな。運ぶだけのつもりだったんだけど…幸斗が離してくれなかったからな」
そう言ってニヤッとウインクをするものだから、幸斗は更に焦ってしまった。
離してくれなかったなんて、実に覚えのないことは当然である。
「な、僕が? まさか、そんなこと…」
「だってなぁ、ほら…」
だが、ククッと笑いながら裕司が視線を胸元の向けると、そこにはしっかりとシャツを掴んでいる幸斗の手があった。
どうやら、抱き上げられたときにそのまま掴んで離さなかったらしい。
「え? あ…っ!」
やっとそのことに気がついた幸斗だが、どうやら本当にしっかりと掴んでいたようだ。
慌てて離したが、しっかりとそこだけ特に皺になっていて今更隠しようなどあるとも思えない。
しかも、
「いや、無理矢理はがすのも大人気ないしな。その代わり、可愛い寝顔をじっくり見せてもらったからな。却ってラッキーだったぜ」
そんなことを言いながらベッドから出る裕司だったが、流石にシングルのベッドに男二人 ―― しかも裕司は結構身長もあるのだから、かなり狭かったはずである。
そのため、一見して高級と判るスーツが皺だらけになっているが、そんなことは全く気にしていないようだ。
そして、
「春也に恩返しで家事をするのもいいが、あんまり無理はするなよ。ああ、今朝の食事は心配しなくていいぞ。もう一人、昨夜ここに泊まった人がいて、その人が張り切ってるからな。幸斗はもうちょっと寝ててもいいからな」
そう言って裕司がチュッと掠めるようなキスをおでこにすると、余りのことに幸斗は、声も出せずに真っ赤になるばかりだった。






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初出:2006.11.10.
改訂:2014.11.03.

Studio Blue Moon