Fugitive 35


龍也や克己たちと別れてホテルに戻ると、既に時刻はシンデレラの魔法が解けるころになっていた。
とはいえ、眠気は全くやってくる気配もなく ―― 食事の後には別のバーにも行ってグラスを傾けてきたのだが、余りに楽しかったせいかその余韻がまだ残っているようだ。
尤も、そう思っているのはおそらく裕司と ―― 克己くらいなもの。龍也が始終不機嫌そうであったことは言うまでもない。
「全く、悪魔とまで言われた男が…克己には甘いんだからな」
かなりの量を飲んできたはずではあったが、あの程度では酔い潰れる裕司ではない。
いや寧ろ、はしゃぐ克己を気にかけて牽制の殺気を撒き散らしていた龍也のお陰で酔うにも酔えなかったといった方が正しいほどで。
それを思い出せば、一人きりでもつい苦笑を浮かべてしまうところだ。
生まれながらの極道で、他人の命など石ころほどにも思っていなかったはずの龍也が、である。
克己を手に入れてからというもの、その溺愛ぶりは人が変わったというレベルではなく、普通の人間だったら、あそこまで束縛されては息苦しくて我慢ができないだろうと思えるほどだ。
しかし、克己にはそんな龍也の狂気に近い独占欲も全く気にする気配もなくて。
それどころか、それが普通のように振舞えるのだから ―― お似合いというところなのだろう。
「まぁ、本人同士がそれでいいなら、周りがどうこういうことじゃないしな」
それに、龍也が独占欲をむき出しにするのも、ある意味では仕方のないことなのだ。
蒼神会の次期三代目という立場上、龍也の回りは常に危険にさらされている。
実際、克己も何度か危ない目にあい、傷つけられた事だってあったのだ。
それでも克己は龍也の側が良いというから。
だから ―― あの笑顔を守るためなら、これからも龍也は何だってするだろう。
そう、克己の悲しい涙を見ないためなら。
「…フン。まぁ今回はそれを利用させてもらったようなものだからな。この貸しは大きく付くかもな」
克己に自分の思い人として幸斗のことを言っておけば、あの優しい克己のことだ。
幸斗に何かがあっただけでも他人事ではないように悲しむことは判りきっている。
しかもそれがヤクザの抗争で、龍也が古傷を抉るようなことをしたと知れば、その嘆きは更に尾を引くだろう。
それは裕司にだって判っていたのだが ――
「…俺も幸斗には甘いってことか」
元々裕司は相手が極道だからと物怖じしない克己をかなり気に入っていた。
それこそ克己に何かあれば、関係ないと判っていても龍也の手助けをしても良いと思うくらいだ。
しかし、今は ―― 幸斗と克己、どちらを選ぶといわれれば、迷うことなく幸斗を選ぶ。
そろそろ成人というには細すぎる身体に、どんな仕打ちがされてきたのかを知らないわけではない。
だがそれだって幸斗が自ら望んだことでもなければ、知らなかったとはいえ今まで助ける事ができなかった己にも怒りが満ちてくる。
いつの間にかそれほどまでにあの儚い存在が大切になっているとは思わなくて。
(まだ…起きてるかな?)
ふと思い描けば ―― ここ数日、念のためと逢わずにいたことが無性に腹立だしくさえ思えてきた。
できることなら今すぐにでも逢いに行きたいと思うほど。
だが、流石にこの時間では公共の交通機関は既に終了しているし、車を調達したとしても、幸斗の元に着く頃には、まだ起きてという時間ではないことも確実である。
「電話でもかけてみるか?」
と言っても、かける先は春也のマンションである。幸斗が出るかどうかは怪しい。
それでも、春也のところがナンバーディスプレイだったことを思い出して、裕司は自分の携帯から春也のマンションの番号を発信した。
―― RRR…カチャっ
『…はい?』
消え入りそうな細い声。しかし、
「幸斗か?」
『はい。…裕司さん?』
相手が裕司だと判ると、まるで目の前で見ているかのように、声にも嬉しさが滲み出ていて。
裕司も携帯を持つ手に力が入った。
『すみません。電話には出なくてもいいって春也さんに言われていたのですが…裕司さんって表示が出てたから、声が聞きたくなって』
「ああ、そうだったな。いや、春也に登録してもらってて助かったな。俺もお前の声が聞きたかったところだ」
『え? あ…嬉しいです』
きっと今頃は、真っ赤に染まった頬を隠すように俯いて、それでいて嬉しそうに微笑んでいるに違いない。
そう思えば、その笑顔をいつか克己と並んでも見劣りしないくらいの無邪気な微笑みに変えてやりたい。
それが裕司の願いだった。






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初出:2006.11.26.
改訂:2014.11.03.

Studio Blue Moon