Fugitive 38


その日、幸斗は朝から様子がおかしかった。
と言っても、何かに怯えてとか悩み事があってというような感じではない。
いや、考え事であるのは間違いなさそうなのだが ―― 春也には、何となく心当たりがあったので素知らぬふりをしていた。
しかし、
「…幸斗?」
「あ、はい?」
夜が仕事という春也の生活パターンのため、朝と言うよりは昼に近い時間がブランチとなる。
その準備は勿論幸斗の担当で、その間いつもなら、新聞を読み終わるまでは話しかけてこない春也であったが、流石にそれには気になって、途中で新聞をテーブルに置いた。
「何かあったのか?」
そう尋ねると、幸斗は途端に真っ赤になった頬を見せたが、
「え、いえ、別に何でもないです…が?」
どこか慌てたように、だが本当に気がついてはいないようだ。
(これは…重症だな)
逆に心配そうにこちらを見る幸斗の視線は、どこか不安気で。
まるでちょっと悪戯をしてしまった子供が、怒られることをビクビクとしているようだ。
「…それならいいんだが」
多分、理由は ―― と思えば、それは別に悪いことでもないのだから、幸斗が隠さなくてはいけないことでもないはず。
勿論、幸斗だってそれは判っていて ―― ただ、恥かしいのだろうということも判っている。
ただ、
「ところで、それ以上焼いたら、食べられなくなると思うんだが…」
「え?」
確かブランチにリクエストしたのはハムエッグ。
しかし、春也に言われてハッと振り向けば、フライパンには、既に元が何だったのか判らないような黒い物体がパリパリと音を立てていた。
「うわっ、どうしよう! すみませんっ、春也さん」
「いや、それより、気をつけ…」
「はい、あっ、きゃあっ!」
すっかり慌てふためいている幸斗は、取りえず火を切ったところまでは良かったのだが、何を思ったのか熱いままのフライパンをシンクに移動させたりしたものだから、溜まっていた水と反応して物凄い蒸気を発生させ、更に混乱に輪をかけている。
流石にその状況には春也も一瞬焦ったが、
「大丈夫か?」
「あ…はい。大丈夫です」
幸い、火傷などはなさそうで、ホッと胸を撫で下ろす。
しかし、
「すみません。ハムエッグが…」
まるでオアズケされた仔犬のようにシュンとした表情は、つい最近までの生きるのも億劫そうだった雰囲気とは全く異なっていた。
幸斗をそんな風に変えたのは ―― 癪だが認めざるをえないところだ。
だから、
「いいよ、気にしなくて。じゃあ、卵はやめて、冷蔵庫にヨーグルトがあっただろう? そっちを貰おうか」
と言ってやれば、
「はい、すぐに持ってきます!」
まるで子供が始めてのお使いに喜び勇むように、冷蔵庫に飛びついていた。
そんな子供っぽいところも、ちょっと前までの生気のなかった姿と比べれば、はるかに喜ばしいと思えるところであるから、
「…この請求は、裕司さんに付けるべきだな」
どことなく焦げ臭いキッチンの片隅に積もった炭の山。
それを溜息混じりにチラリと見ると、春也はそんな事を呟きながら苦笑を浮かべて換気扇のスイッチを押していた。
別に監視をしているわけではないが、仕事から帰って来ると毎晩電話の着信履歴は確認している春也である。
と言っても、客にも当然教えていない番号であるから滅多に履歴が表示されることはないのだが、昨日はその珍しいリストの中に裕司の携帯の番号が入っていたことを知っていた。
ここ数日、万が一を考えて裕司はこのマンションに来ることは控えている。
その理由は幸斗に余計な恐怖を与えないためにも言ってはいなかったため、何も知らない幸斗が寂しく思っていたのは間違いないだろう。
(カタが着いたら…裕司さんに任せるかな? どうやらあっちも本気みたいだし…)
生きていたら ―― 死んだ弟と同じくらいの年頃に当たる幸斗。
拾ったときの状況が、その弟を失ったときとあまりに似ていたから、どうしても今度は守ってやりたいと思っていた。
そしてできることなら幸せに ―― と。
その相手が、よりにも寄ってヤクザで遊び人の裕司というのがかなり気に入らないが、守る力があるのは確かだ。
と、そんなことを考えていたその時、
―― ピンポーン…
ここ数日は毎日のように使われているインターフォンが来客を告げ、当然のように春也はモニターで確認してから玄関まで出迎えに行った。






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初出:2006.12.10.
改訂:2014.11.03.

Studio Blue Moon