Fugitive 43


冷たい床の感触を頬に感じながら、ゆっくりと意識を取り戻しかけていた幸斗であったが、その声が聞こえた瞬間、ハッと息を呑んだ。
「おい、待てよ、安原。あのガキを見つけたのは俺の手下じゃないか。だったら、一度くらいは抱かせてくれたっていいだろうが?」
姿は見えなくても、獰猛そうな声の調子は良く判る。
幸斗自身は直接逢ったことはなかったが、それでも何度か聞いたことのある声だった。
そうあの秘密クラブで。
自分と同じようにオモチャにされていた人が消えるとき、決まってといってもいいほどに姿を現していた男で。
幸斗には、自分が今どういう状況に置かれているかも判らないが、とにかく息を殺すようにじっとしているしかできなかった。
しかし、
「ええ、それはもう、判っていますよ、保之さん。ただ、幸斗は水谷先生のお気に入りですからねぇ。先生を差し置いてというのは、やはりまずいところがありまして…」
まるで獰猛な野獣を宥めるかのように話すもう一人の男の声に、幸斗は悲鳴を上げなかったのが不思議なくらいだった。
そう、あの獰猛な男の声などより遥かに恐ろしい。
忘れもしない。
自分を、更なる奈落に突き落とした張本人 ―― 金光組の安原だ。
それに気がついた幸斗は咄嗟に逃げようとしたが、そのときになって漸く今の自分の状態に気がついた。
悲鳴が出なかったのも当然で、厳重に巻かれた猿轡のせいでうめき声だって出せるとは思えないし、勿論両手は後ろで縛り上げられ、足もロープで自由が利かない状態である。
そんな状態で無造作に床に転がされており、どうやら声のする男達とはほんの目の前のカーテン一枚で遮られているだけのようだ。
しかも、
「だが、水谷はまだ来ないんだろう? だったら、来るまで俺が可愛がっても文句はねぇだろう?」
獰猛そうな男の声が告げた名前に、幸斗は更に息が止まるかと思った。
そう、水谷といえば、知っているのはあの水谷しかいなくて。
(まさか…いや、でも…まさか…!)
何度も何度も幸斗の身体を蹂躙して、思いのままに汚していった男の名前。
しかも最後には、本人だけでなく何人もの男達に嬲らせて、それを楽しんで見ていた男の名前である。
それが、
「いえ、先程連絡がありまして、もう暫くしたら、おいでになるんですよ」
「何だと?」
( ―― っ!)
安原のその答えに、幸斗はガクガクと震えることしかできなくなっていた。
「ですから…保之さんには本当に申し訳ないですが、今日のところはお譲りください。その代り、いい情報が入りましたので、そちらをお教えしますよ」
そう言って、なにやら低い声で安原が保之と呼んだ男に何か告げているようだが、そんな会話など既に幸斗の耳には届かなかった。
(あの男が…来る? また、あの夜が…)
何人もの人の前で散々嬲られて、その場にいた全員にも犯されて。
それも尋常な方法ではなく、言う通りにしなければ鞭で叩かれたり、針や蝋燭で責められた。
それこそ、何度殺してくれと願ったことか判らないくらいだった。
その張本人が来ると聞いて、尋常でいられることなどありえなかった。
だから、
「…本当だろうな?」
「ええ、裏は取ってあります。何でもあの店のバーテンとシケこんでいるとかで…これも中々のモノらしいですよ」
「…判った。今日はそっちで楽しんでくるか。だが、次は幸斗で遊ばせてくれるんだろうな?」
「ええ、それは勿論。見つけてくださったお礼ですから」
そんな恐ろしい取引の材料になっていることなど、今は考える余裕もなくて、
(いやだ…いやだ、いやだっ! 助けて、裕司さんっ!)
無意識に心の声で叫んでも、そんな声が届くはずもない。
それでも今の幸斗に縋れる人といえば、裕司しかいなくて。
(裕司さん、裕司さんっ! 助けてっ!)
もしも声が出せたなら、それこそ血を吐くほどに叫んでいただろう。
それほどまでに切なく必死で助けを求めていた幸斗であったが、
「ああ、気が付いたか。どうした? 随分と悲壮な顔をしてるじゃねぇか」
そう言ってカーテンを開けた安原の姿を見た瞬間、幸斗は全てが終わったと思い知らされていた。






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初出:2007.01.07.
改訂:2014.11.03.

Studio Blue Moon