Strategy 18


早朝の柔らかい日差しの中、飛島はやっと落ち着いた寝息を立てるようになった悟を起こさないようにベッドに起き上がった。
そして血の気を失うほどに強くシーツを握り締めていた指をそっと解し、悟の身体に毛布をかけると、静かに部屋をあとにした。
「あ…悟さんは大丈夫?」
リビングでコーヒーを飲んでいた智樹が席を立ち上がりながら尋ねる。
「今は…やっと落ちついて眠っている。私はシャワーを浴びてくるが、絶対に起こすな」
「うん、判った」
珍しく智樹が素直に聞くのは、やはり相手が悟だからか ―― しかし、そんな詮索には気にも掛けず、飛島はバスルームに向かった。
少し熱めのシャワーを頭から浴びると、一瞬、背中にピリッと痛みが走った。
鏡で確認するまでもなく身に覚えの在る傷 ―― 今朝方までの激しい情事に溺れた悟がつけた爪あと ―― なので無視して体の汗を流す。
小柴建設の本社から、飛島は迷うことなく悟を自分のマンションに連れてきた。
今までは小柴の目に留まることを恐れていたため、絶対に悟からは訪れたことのない部屋である。
しかし昨日はそんな気遣いすらできない状態だった。
『クスリ…飲まされたみたい…だ。悪…い、身体が…きかない…』
抱えられるようにして車に乗せると、悟は熱い息の元でそう呟いていた。
そのクスリがどういうものか ―― 悟の状態を見れば一目瞭然のことである。
小柴が最近、若い男にまで手を出すほどの漁色に走っているという話は聞いていた。
しかし、仮にも悟は自分の息子である。
いくら愛人にしていた由美子によく似ているとはいえ、まさか実の息子にまで手を出そうとしてくるとは思わなかった。
(まさか…気づかれた? いや、そんなはずはない…)
とにかくもはや猶予はない。悟をこのまま自宅に帰すわけにもいかない。
自分の目の届く範囲でなら幾らでも守れるが、見えないところでは不可能であることを飛島はよく知っていた。
できることとできないこと。
そして、自分がやりたいこととやるべきこと ―― 。
無造作にバスローブを引っ掛けてリビングに戻ると、智樹は既に書斎にこもってパソコンの前にいた。
それを横目で見ながら、静かに寝室のドアを開ける。
見慣れたベッドの上には静かに眠る悟の姿があった。
飛島がバスルームに言っている間に寝返りでも打ったのか、掛けていたはずの毛布が少しずれ、細い肩が覗いている。
その肩甲骨のラインは飛島がつい今しがたつけたキスマークで彩られていた。
枕に突っ伏すように眠りを貪る表情は、流石にやや青ざめているように思える。
唇が切れているのは、いくらクスリに煽られていたとはいえ、そのまま流されることを拒んだ悟のプライドの所以である。
「すみません、もう絶対に貴方を危険な目には合わせませんから…」
切れた唇からにじみ出る血の跡を舐めとって、乱れた前髪をかきあげる。
すると、まだどこか少年っぽさを残した長い睫がかすかに震えた。
その頬に更に口付けようとしたその時 ――
「ごめん、兄貴、ちょっと…」
不意に智樹の声がドアの向こうから届き、飛島は軽くした舌打ちをした。
「何だ?」
「お邪魔した? ごめん、ちょっと妙な情報が入って…出てこれる?」
「…今行く」
仕方がなく、悟の掛け布団を直して軽く頬に口付ける。
クスリに翻弄された悟は多少のことでは目を覚まさず、ただ静かな寝息を繰り返すだけだった。



書斎に移動すると、そこは雑多な機械類に埋もれていると言っても過言ではない状況になっていた。
「ところで兄貴、メシ食ってないだろ? いいの?」
「ああ、後で済ませる」
何気にそう応えて、そういえば悟にも何も食べさせてないことに気が付いた。
飛島が悟を連れてマンションに戻ったのが夕刻前で、クスリの熱を冷ませるためについ今しがたまでベッドを共にしていたのだから、仕方がないといえば仕方のないことである。
しかし、
(寝かせておいてあげたいが、一応、声をかけるか?)
悟は低血圧でそれでなくても貧血を起こしやすいところがある。
こんなときではあるが、悟に関してはとことん甘い飛島であるから、三度の食事にはいつも気を配っていた。
ふと気が付くと、智樹がニヤニヤと意味ありげな表情で見ている。
飛島は、自分はもとより他人の評価に対してもかなり辛辣なところがある。
できる人間はもちろん厚遇するが、使えない人間に対する態度は端から見ていても冷たいと思われてしまう。
そんな彼が、唯一悟に対してだけは優しい表情を見せることが、智樹には面白くて仕方がない。
(鉄面皮の無表情人間の兄貴が、唯一、人間らしくなるところだもんなぁ)
「何を見てる?」
「いや別に。それよりこっちね」
既に起動されていたパソコンから雑多な文字の羅列が映し出される。
それは智樹のハッカー仲間から送られてくる警察無線の傍受記録で、場所は新宿となっていた。
「どうも栗原が新宿に向かったらしくてね、メル友に頼んで警察無線の記録を送ってもらったんだ。そしたら、これ…」
それは歌舞伎町で傷害事件が起きたらしいというものであり、らしいというのは加害者は勿論のこと、被害者も姿を消しているためであった。
「これに前後して蒼神会の動きが活発してるんだ。多分、刺されたのは蒼神会の関係者 ―― それもかなり上の人間じゃないかって思うんだけど」
栗原の狙いはこの3月に襲名したばかりの新組長、藤代龍也のはずである。
「やったのは栗原か?」
「多分。でも本人がやったとは思えないね。多分、手下のチンピラにでもやらせたんじゃないかな?」
小柴組の中でも、栗原は俗に言う武闘派である。当然抱えている手下の数も多く、使い捨てにできる駒には事欠かないはずだろう。
「現場からは二種類の血液が採取されているらしいよ。やられたのが蒼神会の若組長としても、もう1人怪我人がいるってことだよね」
怜子が狙っていた首都圏再開発計画の受注に関しては、既に藤代興業の手に落ちたと言っても過言ではない。
怜子自身は代議士にまで手を回したらしいが、あれだけマスコミに叩かれた小柴建設に、付け入る隙などあるはずがないのは当然のことである。
あと小柴が付け入るとすれば ―― それは藤代興業が辞退するしかないというものであろう。
しかし、
「愚かだな。藤代興業が辞退したからと言って、小柴に仕事が回ってくると思っているのか?」
「思ってるんじゃない? ああいう連中はさ、自分の未熟さってモンを判ってないから」
「確かにな」
もともと視野が狭い上に追い詰められているという危機感があるから、やることは更に過激になっていくだろう。
本質的に小柴はヤクザなのだから。
無論、窮鼠猫を食むの例えもある。慎重に事を構えるに越したことはない。
(とにかく、悟さんの安全は確保すべきだな)
飛島はそのために打つべく手を既に用意していた。






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初出:2003.07.23.
改訂:2014.10.25.

Fairy Tail