Strategy 27


新規事業を藤代興業に取られたことで、小柴建設はこのままでは不渡りも免れない状況となっていた。
もはや悠長なことを言っている場合でもない。
それゆえに、先日飛島が笹川から聞いた話 ―― 小柴建設が葵建設と合併する ―― が急浮上し、九月一日付けで合併という話はほぼ決定事項となっていた。
そして小柴建設の本社ビルに呼び出された悟の懐には、既に書き上げられた合併の同意書が提出の時を待っていた。
「もともと葵建設はウチの融資で存続していたようなもの。親会社の意向に逆らうようなことはしないわよね?」
葵建設の株の45%は小柴が所有している。そのほかも小柴組の幹部が所有しているため、実質の決定権が小柴にあるのは周知の通りである。
それを知っていながらのネチネチとした言い方は酷く悟の癇に障った。
しかも、確かに25年前の急場は小柴建設によって救われてはいたが、その後は小柴にどれだけの上納金を貢いできたと思っているのかといいたいほどである。
すでに借りた金の利息を加えても、数倍以上の金額が小柴に流れているのは事実である。
ただし、そんなことをここで言っても、恐らく鼻先であしらわれるのがおちである。
「…わかりました。合併に関して反対する気はありません。同意書にサインします」
そういうと、既に目の前に提示されていた書類を一読し、顔色一つ変えずに署名を加えた。
何事もないように書類にサインする悟の姿に、むしろ怜子のほうが訝しく思う。
おそらく既にその覚悟はあっただろうとは思うのだが、飛島も何も言わないというのはどういうことか?
しかし、
「ところで、今後のことですが…」
悟は署名をし終わると、ふと顔を上げた。
「葵建設が小柴建設の吸収合併ということになりますと、自分の役目も終わったかと思います。まさか小柴建設に移動して小柴組への上納金を稼げとは言われないでしょう?」
「そうね、そういうことになるかしら?」
「では、こちらの受理をお願いしたいと思います。お受けいただけますか?」
そういうと悟は胸の内ポケットから辞表を取りだし、怜子の前に提出した。
「正式な退職日は残務処理を済ませてからで構いませんし、退職金などはいりません」
「…辞めて、どうするつもり?」
そう尋ねながら、怜子の脳裏ではめまぐるしく計算がされていた。
「さあ、今の所はまだ考えていません。でも、母の保険金もありますから、当座の生活には困らないと思います」
そう言ったとき、怜子の背後で控えていた顧問弁護士の笹川がピクリと眉を顰めた。
由美子が死んだとき、悟は小柴が由美子に買い与えたマンションを引き払い、別の賃貸のマンションに移り住んだ。
以前のマンションの売り払い金は小柴に上納金の一部として返してある。
そのため、財産といえるものは殆どないが、由美子の保険金に関しては受取人が悟であり、未だに換金はされていなかった。
金額にすると、事故死であるから約三千万。会社運営ということから見ればたいした金額ではないが、個人的には無視できない金額である。
由美子の保険金は悟でなくては受け取ることは不可能である。
しかし、実は保険金はそれだけではなかった。悟が葵建設の社長職についた際、会社名義で悟自身にも保険が掛けられていたのだ。
普通の会社であれば、それは別に怪しいことではない。社長の安全を会社が負担するというようなものであるから。
しかし、悟に掛けられている保険金は事故死で一億。由美子の時とは金額が違う。かといって、三千万を見捨てるのも惜しい。
(そうね。あの女の保険金が降りてからこの子も片付けてしまえばいいわけね)
それならば、就職活動の邪魔をして生活に困らせてやればそれだけ早く保険金の請求もすることだろう。
そのためには、さっさと会社を辞めさせるに限る。
「そう…まあ、まだ若いのだから、再就職には困らないかもしれないわね。判りました、これは受理します。合併登記と合わせておくわ」
「ありがとうございます」
そう心にもない礼を告げて、悟は合併に関する同意書に捺印をした。



遠くの林からは短かった夏の終わりを告げるようにヒグラシのもの寂しい鳴き声が響き渡っていた。
「私はここでお待ちしております。お母様とごゆっくりお話されてください」
ちょっと小高い丘に位置する市営の霊園で、飛島はそういうと悟を1人で行かせた。
「悪いな。じゃあ、ちょっと行って来る」
「ええ、ごゆっくり」
辞表を出したことで悟の身分はかなり自由にはなった。
しかし、身の危険ということを考えれば寧ろそれは前より危うい。
しかも相手はヤクザであるから、何をしてくるかは判らないが、少なくとも葵建設と小柴建設の合併が正式発表されるまでは事は起こさないはずである。
『報告したいんだ、母さんに…悪いが寄ってくれるか?』
小柴建設を出た際の悟は、今までの鬱積を全て吐き出したように清清しい表情を向けていた。
その全てを見慣れている飛島でさえ、一瞬ドキッと息を呑むほどに。
(そう…ですよね、やっと貴方が自由になれたんですものね)
無論、問題はまだ堆積している。あの怜子がこのまま大人しく手を引くとは思えない。だが、これが大きな一歩であることは確かだった。
『貴方が飛島さん? 悟がお友達を連れてきてくれたのは初めてよ。悟をよろしくお願いしますね』
初めて会ったとき、由美子はそう言って当時はまだ学生に過ぎなかった自分に頭を下げた。
悟とよく似た ―― しかし、はるかに儚い印象のたおやかな女性で、とても悟のような大きな子供をもつ母親には思えなかった。
そして悟もまた由美子を大事にしていて ―― そんな二人の姿が、飛島には見ていて心地よかった。
出会ったばかりの悟は、全ての者に戦いを挑むような刺々しさと、拒絶で身を包んでいた。
それが由美子に対してだけは年相応の ―― 寧ろそれ以下の幼子のように優しかった。
実は飛島には母親の記憶がない ―― それはイメージでしかなった。
実際身近にいた母親というのは智樹の母で、しかし彼女は父親の秘書という立場を貫いていたから、母親としての姿は見たことはなかった。
だから ―― 親子というものはこういうものなのかと、純粋に驚いたのを覚えている。
しかも由美子の悟に対する想いは、自分の身を呈してでも守りたいという見返りを持たない愛情 ―― そんなものが本当にあると知った瞬間でもあった。
『お前も来ないか?』
母の墓前に向かう悟がそう誘ったとき、飛島はそれを断った。悟には親子水入らずでというようなことを言っていたが、その本心は ――
「悟さんを、本当に自由にできたらご挨拶に行きます。後もう少しだけお待ちください」
夕日の沈みかける静かな霊園で、飛島は改めてそう誓っていた。






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初出:2003.08.10.
改訂:2014.10.25.

Fairy Tail