La persona che e destinata(運命の人) 07 Lato:T


―― ガシャーン!
その瞬間、まるで水を打ったように静寂が包み、全ての視線が集中する。
しかし、
「ああ、申し訳ない。ちょっと慌ててしまいました。お騒がせしてすみません」
そう言って場を沈めると、ニッコリと愛想のいい笑みを俺に見せた。



「本当に申し訳ありません。慌てていたのでぶつかってしまいましたね。ああ、どうか気にしないでください」
イタリア男はそう言うと、慌ててやってきたボーイからナプキンを受け取り、それで軽く胸の染みを叩いた。
勿論、その程度で拭えるようなものではない。
それにそもそも ―― 床に砕けたのは、サミュエルが手にしていたグラスだ。
それも並々とワインが入っていたもので、その殆どがイタリア男の白いスーツに吸い込まれたようだ。
パッと見れば、これだけ人間がうじゃうじゃといる会場だから、何かの拍子にぶつかって、サミュエルの持っていたグラスが落ちて男のスーツにかかってしまったと見えるだろう。
実際に、イタリア男はそんなふうに言っているが ―― それが真実でないことは俺には判っていた。
サミュエルは俺を狙ってワインをぶちまけるつもりだった。
それでなくても俺がしゃしゃり出てきたのが気に入らないのに、どうやらこの世界では名の知れているらしいあの英国人にあそこまで嫌味を言われたんだ。身から出た錆とは言っても、カッとなるには十分だったろう。
だから ―― ただ単に、俺にワインを浴びさせて恥をかかせようとしただけか、それともそれを機にこのパーティからの厄介払いまで考えていたのかは判らないが。
とにかく、狙いは俺だったはずだ。
それがこのイタリア男に邪魔されて、流石にサミュエルも言葉がないようだ。
まぁいい、サミュエルの方は知ったことか。それよりも…
「それよりも、貴方は大丈夫でしたか?」
「…え?」
「ワイン、かかりませんでしたか?」
一応、ナプキンで染みを叩いてはいるがそんなことはどうでもいいらしく、イタリア男は心底心配気に俺の方を向くと、そんなことを問いかけてきた。
全く、何を言っているんだこの男は。
俺は呆れるよりも寧ろ怒りさえ覚えそうな気がするのを、必死で押さえていた。
砕けたグラスは既にボーイが片付けている。それでも床には染みが残っていて、それ以上のものがこの男の胸を染めているのだ。
しかもグラスを持っていたサミュエルと俺の間に ―― まるで盾のように割って入ったのがこの男なのだから、俺にワインがかかるはずもないじゃないか!
「え、ええ、俺は大丈夫ですが…」
「それは良かっ…あ!」
俺の応えにホッとしたような表情を見せた男だったが、不意に声を上げると、慌ててその場にしゃがみこんだ。
「何てことを。こんなに汚してしまいました」
「え?」
突然俺の足元にしゃがみこんだかと思えば、イタリア男はポケットからハンカチを取り出して俺の靴を拭き出した。
どうやら、床にグラスが落ちたときに少ししぶきが跳ねたようだ。
とはいっても、俺の靴は黒の革靴だから、少々のワインなど目立つものでもないというのに、
「ちょっと…何をしてっ!」
慌てる俺には構わず、男は必死になって俺の靴を拭いている。
おいおい、なんでお前がそこまでするんだっ!
「止めてください。本当に大丈夫ですから」
「いいえ、汚したままでは申し訳ありませんから」
汚したって、それはお前がやったわけじゃないだろう? そもそもはサミュエルのバカがやったことだし、大体、本人がいいって言ってるだろうが!
そう口に出かかったが ―― 見上げた男が本当に申し訳なさそうな目で見るので、無下にはいえなかった。
何でそんな目で見上げるんだ? まるでそれは ―― 悪戯を叱られた飼い犬みたいじゃないか。
実際、張本人であるはずのサミュエルも余りの展開にどう対処していいのか判っていないようで ―― まぁヤツがどうしようなど俺の知ったことではないが、この状況は無性に腹が立つ。
これでは本当に、悪いのはこの男のように見えることだろう。
だから、
「教授、控えに取っていたお部屋をお借りしてもよろしいですか?」
確か、控え室代わりに部屋を取っているはずだ。
俺はともかくこの男の方は着替える必要があるから、その部屋を借りようと教授に断りを入れた。
「ああ、そうだね、タカユキ。私はちょっとここから離れられないから…ロッセリーニ氏のことはお任せするよ」
ロッセリーニというのがこの男の名前なのか。それを教授が知っているということは、どうやら関係者ということか?
だが、今はそんなことを確認している場合でもない。
「判りました。では、こちらへ」
そう言って肩に手をかけると、イタリア男は嬉しそうな表情を見せて立ち上がった。






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初出:2007.06.03.
改訂:2014.10.11.

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