La persona che e destinata(運命の人) 08 Lato:J


大丈夫だったと言ってもらえたから、本当に良かったと思っていたのに。
「何てことを。こんなに汚してしまいました」
気がつけば、彼の靴にワインがかかっていた。
それはほんの少しで、靴も黒の革靴だったから目立つというほどではなかったけれど。
それでも ―― この人を汚してしまったということが僕には許せなかった。



「こちらへ」
そう言って僕の前を先に行く彼は、ちょっと不機嫌そうな感じがした。
やっぱりストーカー紛いに追いかけてきてしまったことを怒っているのだろうか?
それとも、靴を汚してしまったことを怒っているのだろうか?
ああ、どうしよう。どうしたら許してくれるだろうか?
ほんのついさっき出逢ったばかりだというのに、僕はもう彼のことしか考えられないくらいに囚われていた。
こんなことは勿論初めてだよ。
そりゃあ僕だって男だからね。いいなって思う女の子は何人もいたけれど、ここまで心が支配されたのは初めてだ。
こうして一緒にいられることは、とても嬉しい。
僕の方を見てくれないのは、とても寂しい。
そして ――
「まずは着替えだな。この奥にバスルームがあるから、シャワーでもしてバスローブにでも着替えててください。とりあえず下に行って、適当に服を見繕って来ますから」
パーティ会場からどうやってきたのか覚えていなかったけれど、気がついたら僕たちはホテルの一室に来ていた。
その部屋に入るなり彼はそう言って、くるりと僕に振り返った。
「俺よりも身長も…肩幅もあるか。申し訳ないが既製品になりますが、サイズは幾つを買ってくればいいですか?」
「え? サイズ?」
「ええ、まさかここで洗うってわけにもいかないでしょう?」
そう言われてみれば ―― 確かにその通りだね。一応上着を脱いでみたけれど、どうやらシャツの方にもしっかりしみ込んでいるみたいだよ。
流石にこのままではちょっと気持ち悪いかな。でも、
「いえ、それなら心配ないですよ。知り合いの店が近くにありますから、持ってきてもらいましょう」
僕はなんでもないようにそう言うと、幸い無事だった携帯を開いて電話をかけた。
かけた先は、紳士服では世界的にも有名なブティック。
僕が使っているのはローマの方の店だけど、仕事柄アメリカにもよく来るからこっちの店でも何度かオーダーしたことはある。
それに、運よくオーナーが店にいてくれて、既製にはなるが僕に合いそうなものを持ってきてくれると言ってくれた。
だから一つ頼みを追加して電話を切ったんだけど、
「…? あの、どうかしましたか?」
見れば、彼はちょっと怒ったような顔で僕を見ていた。
「お前…一体、何者だ?」
そう尋ねた口調と視線はちょっと胡散臭さと疑惑めいたものを感じたけれど、それも当然だよね。
僕が連絡した先は世界的にも有名な店だから、それを電話一つで持ってこさせるなんて ―― 普通じゃないんだよね。
それに、そういえば、まだ名前も言っていなかったんだっけ?
だから、
「ジーノです。ジーノ・ロッセリーニと言います。ローマでパオロ・ファーマ社という製薬会社の副社長をしています」
と答えると、流石に彼も驚いたようだ。
「なっ…パオロ・ファーマだと? あの、パオロ・ファーマかっ!?」
「ええ、あの、パオロ・ファーマですよ」
一応わが社は製薬業界では世界で5指に入る売上を誇っているからね。
それにどうやら彼はメイナード教授のところにいるようだから、同じ業界ということでもあって、わが社の名前は知っているようだった。
会社の名前を知っていてもらえたことが、こんなに嬉しく思えたのは初めてだよ。
ところが、
「そんな大会社の副社長ともあろうヤツが、なんであんなことをしたんだっ!?」
まるで堰を切ったように、彼は今にも掴みかかってきそうな勢いで怒鳴っていた。
今までのちょっと他所よそしさの入った丁寧な口調とは全く違う。まさに感情がこもった 言葉と表情がゾクリとするほど綺麗だ。
えっと、これは僕が怒られているのは間違いないようだけど ―― それでも、黒曜石のような澄んだ目をまっすぐに僕に向けてくれているということが、なんだかとても嬉しいな。
おかげで、
「あんなこと?」
「その服のワインの件だっ! そんな大会社の副社長ともあろう者が、なんで俺を庇ったりした? サミュエルの狙いは俺だった。本当なら、ワインを被ってたのは俺の方だったはずだ!」
パーティ会場でにこやかに話している姿もとてもキレイだったけれど、こうして怒っているところもとても素敵だと思うのはおかしいかな?
でもね、こう、なんていうのかな。
凄く生き生きとしていて、取り繕っていない、本当の姿を見せてくれているっていう感じで、僕にはとても衝撃的だった。
だから彼が、仮にも会社の副社長がとかなんとか言っているのをなんとなく聞いてはいたんだけど、
「えっと…被りたかったんですか?」
「そういう意味じゃないっ!」
ああ良かった。そんなことはないとは思ったけど ―― もしそうだったらどうしようかと思っちゃったよ。
だったら、尚のこと。ちゃんと話さなきゃいけないね。
「会社のことは関係ありませんよ。僕はそんなことよりも、貴方のことの方がずっと大切に思えたんです」
「俺のことがって…さっき逢ったばかりじゃないか…?」
「ええ、一目惚れです」
どうやら僕の答えは余りに予想外だったようで。今度は今までの怒りがどこかへ行ってしまったかのように呟いた。
「…俺は男だぞ?」
「そうですね、僕もゲイというわけではなかったはずなんですが…」
「揶ってんのか、お前」
「それは違います。僕は本気です」
「生憎、俺にはそういう趣味はない。だが…」
そう言いながらも、彼はちょっと照れたように視線を外して呟いた。
「…隆幸だ。日本風に言えば、九嶋隆幸。今は、メイナード教授のところで研究生をやっている」






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初出:2007.06.09.
改訂:2014.10.11.

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