暁に見る夢 08


テーブル席の客は、当然ホストの指名料も負担しているものだ。だから、
「あらあら、随分な言い方ね。そういう俊彦の方こそ、お客さんほっといていいの?」
当然そんなことは許されるはずもない。そのため、今まで寿樹についていたヘルプの青年も、驚いて追いかけてきている。
しかし、
「すぐに戻りますよ。咲子さんが新人をからかうのを止めてくださるならね」
そんな店の常識など問題外と、寿樹は戻る気配さえ見せなかった。
流石にこれには成樹も拙いことだと判ってはいるようで、
「別にからかわれてなんて…」
何とかこの場を納めようと、そう言ってみたのだが、
「そうよ、からかってなんかないわよ。彼、私の好みなんですもの」
そんな風に咲子が続けた瞬間、寿樹の表情が凍った。
勿論、咲子が本気で言っているわけでもないことは判っている。
こんなやりとり、この世界では社交辞令ですらない程度のもののはず。
しかし、
「冗談でも、そういうことは言って欲しくないですね」
そう呟いた声は、恐ろしく低く、冷たい怒りに満ちていた。
ここではナンバー2を誇るほどの寿樹であるから、そのルックスはテレビで見る俳優やモデルにも負けないほどの美貌を持っている。
店での人当たりはいいし、甘え上手なところがあるので、年上の客には人気が高いのも事実である。
その一方で、実は中学時代から不良グループの頂点に立つこともあったというのだから、それなりの修羅場も経験しており、そのことはこの界隈の裏世界に通じている人間なら、誰でも知っているほどであった。
実際、この界隈では寿樹に腕力での喧嘩を売ろうとするチンピラは皆無といってもいいほどで。
それだけに、凄んだときの気迫はいきがるだけが取り得のチンピラにだって負けないくらいだ。
勿論そんなことを店で見せることは、今まではなかったはずだった。
それが、
(あら、ちょっと地雷踏んじゃったかしら?)
流石に本気で怒っていると気がついた咲子は、ゾッと背筋に寒気を感じていた。
咲子はこの近くにあるクラブのホステスを正業としているが、裏では情報屋としても名の知れた女である。
とはいえ今日は純粋に遊びに来ただけで、お目当てのホストが別の接客中だったために、それなら時間つぶしに新人のバーテンをからかってやろうとくらいにしか思っていなかったのだ。
そのはずが、ちょっと声をかけただけで寿樹がやってきた。
しかも、それはまるで大事な宝物を勝手に見つけられた子供が慌てて取り返しに来たとでもいうような感じであるともなれば、悪戯心が沸くなというほうが無理というものだ。
その上ちょっとからかってみれば ―― 咲子のようなタイプにはいつもなら憎たらしいほどに本心を見せずに、小馬鹿にしているような雰囲気さえ見せるはずの寿樹が引っかかってきたのだから、更に好奇心が刺激されて。
気がつけば、少々代価が高くつきそうな気配になってしまっていたというところだ。
(ちょっと拙いわねぇ。でも、そろそろ助けが入ると思うんだけど…)
この店内には幾つかの隠しカメラが設置されていて、店長である中谷が奥のモニター室で監視していることは咲子も知っている。
おそらくこの状況も向こうでは察知しているはずだから、そろそろ何とかしてもらえるだろうとは思っていた、その時、
「俊彦さん、マダムがお待ちですから…」
そう言って寿樹を迎えに来たヘルプが肩に触れようとした。
しかし、
「煩いっ!」
カッとなった寿樹は腕を思い切り振り払い、その反動でへルプは勢いよく床に転ばされてしまった。
―― ガシャーンっ!
近くのテーブルにその被害が広がり、グラスが床に落ちて割れる。
そして、
―― ビシャッ!
突然、寿樹の顔に、グラスの水がかけられた。
「えっ…?」
「悪い。手が滑った」
そう言って空になったグラスをもって立っていたのは、この店のナンバー1、春彦だった。



モニターで剣呑な雰囲気を察した裕司がやって着たときには、既に全て片がついていた。
「頭、冷やしてきな」
寿樹にそれだけ言うと春彦は中央のテーブルに戻り、まるで何事もなかったかのように待たせていた客の相手を再開した。
その様子に、一瞬固まっていたフロアの空気も再び流れ出し、他のホストやヘルプも自分の仕事に戻っている。
寿樹も流石に頭が冷えたのか、
「ちょっと外に出ます」
誰にとでもなくそういうと、ふらりと店の奥に引っ込んでしまった。
気まずいのは、咲子と成樹である。
しかし、
「あんまり子供を苛めないでやってくれよ」
そう言って裕司が咲子の隣に座れば、
「そうね、ちょっと悪乗りしすぎたみたい。でも…あそこまでムキになる俊彦を見たのは初めてよ。本気で貴方のことが心配なのね」
そう言われて、成樹は返答に困ってしまった。






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初出:2007.07.31.
改訂:2014.10.05.

Paine