暁に見る夢 09


店の裏に飛び出すと、寿樹は力任せに壁を殴りつけた。
「くそっ…!」
胸の中がもやもやとして、無性に腹が立って仕方がない。
何故か自分を避けるような成樹に対しても。
そして、そんな成樹を振り向かせられない、自分に対しても ―― だ。
「なんでだよ…」
春彦にかけられた水のおかげで、あの場では何とか激昂せずには済んでいた
だがあれだけの水では、今こうしてもやもやとどす黒く渦巻いている胸のうちを収めることなどできるはずもないことだ。
ずっと逢いたくて逢いたくて仕方がなかったというのに、実際に再会してみればどうしていいのか判らなかった。
大体、何故、成樹がこんなところいるのか。
まさか今もあの豪奢な家から出してもらえずにいるとは思っていなかったが、逆にこんなところで働いているとは、夢にも思っていなかったのだ。
今頃は、有名な大学を出て、一流の会社にでも勤めているとか。
それとも、どこかの令嬢と幸せな家庭でも築いているのだろうとか。
そんなことを漠然と想像していたのに ―― だ。
それがこんな ―― 卑下するわけではないが、決して人に威張って言える職業とは思えないところで再会するなんて。
そしてそれを問い詰めたくても、何故か避けられているような気がしたから、聞くことさえできなかった。
本当に避けられていたら?
いやそれどころか、自分のことなど忘れていたなんて言われでもしたら?
そんな恐ろしいことを考えるなん ―― とても正気でなどいられない。
しかし、
「…寿樹?」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、そこには気まずそうに立っている成樹の姿があった。
昔と変わらず、自分の名前を読んでくれる ―― 兄の声だ。
「…兄ちゃん?」
名前を呼ばれただけがこんなに嬉しいなんて、どこの少女マンガだと思えてしまう。
でも、嬉しい気持ちを偽ることはできない。
この瞬間を、どれだけ待ち望んでいたことか。
この瞬間を、どれだけ夢見てきたことか。
だから、このまま泣き出しそうになっていることだって、全く恥かしいと思えなかった。
ところが、
「…ごめん、寿樹」
駆け寄って抱きつきたいと思った瞬間、聞こえてきたのは思いもかけない謝罪の言葉だった。
「まさかここにお前がいるなんて知らなかったから…嫌な思い、させたよな」
「…え?」
何で俺が嫌な思いをしていると思うのだろう。こんなに逢いたくて逢いたくて、待ち焦がれていたというのに?
でもそれを尋ねる前に、成樹は苦しそうな表情でポツリポツリと呟いた。
「俺に会いたくなんかなかっただろう? 俺は…お前と母さんを捨てたようなものだからな」
それは違う。寧ろ、捨てたと言うのなら、それは母さんの方だ。
それも、今となってはちゃんと事情もわかっている。あの時はそれしか方法がなくて、それに付け込んだのが、祖父だったのだ。
それなのに、何故そんなことを ―― ?
「だから…俺がここにいるのが嫌、なんだろう?」
「 ―― !?」
そう言って自分を見る兄の姿は、あの時の ―― 16年前のあの日と同じだった。
今にも泣き出しそうな目でいながら、無理して笑ってみせる、とても寂しい笑顔。
そんな表情は、見たくもない。
いや、また見るなんて、我慢できない。
だから、
「悪かったな。店長に言って、今日付けで辞めさせてもらうよ。もう…お前の前に現れたりしないから」
そう言って目を逸らすと、成樹は店に戻ろうとした。
それを、
「 ―― っ!」
寿樹は成樹の体を力任せに捕まえた。
「なっ…寿樹?」
一瞬何が起こったのか判らずにいた成樹だが、叩きつけられるように壁に押し付けられて身動きが取れないと判ると、流石に怯えが走ったのは仕方がない。
寿樹と別れたのは16年前 ―― 2人が5歳と8歳のときだ。
その頃の3歳差といえば、当然体格の差も歴然としている。
しかもあの頃の寿樹は泣き虫で、女の子にでも泣かされることがあったくらいだ。
それをいつも背中で庇っていたのが成樹のほうで、泣きつかれて眠ってしまえば、覚束ない足取りで背負って家に帰ったことだってあったものだ。
それが、今では寧ろ寿樹のほうが少し背が高いくらいで。
掴まれた腕の強さも ―― 遥かに上だ。
(大きくなったんだな。昔は…俺が守ってやってたのに)
16年の空白が、こんなに形となって現れるとは思わなかった。
でも、ここで少しでも清算できるのなら ―― そう思って、
「殴りたいなら、遠慮することないんだぞ。お前と母さんには、本当にすまないと思っているから…」
暴力に対する恐怖がないとは決して言えない。
だからどうしても怯えたようになってしまうが、それでもそう云えば、
「違うっ! 違う、違う、違うっ! 何でそんなこと言うんだよっ!」
ブンブンと首を振って、寿樹は叫んだ。
どうしてこんなところにいるのか。一体何があったというのか。
聞きたいことはそれほど山のようにある。
でも、今はそんなことはどうでもよくて。
今は ―― 自分のこの気持ちを伝えられないもどかしさが許せなかった。
しかも、このまままたどこかに行ってしまうなんて言うのだから。
今度はどんなことをしたって ―― もう二度と、手放す気はサラサラない。
「行かせないよ、成樹。もう二度と、俺から離れるなんて許さない」
「とし…き?」
「もう誰にも渡さない。あんたは…俺のものだ」
そう呟くと、そのまま噛み付くように唇を重ねた。






08 / 10


初出:2007.07.31.
改訂:2014.10.05.

Paine