暁に見る夢 10


殴られると思っていた。
自分の心の中ではいつまでも可愛い弟だと思っていたが、こうして体を並べてみれば一目瞭然だった。
自分の背中に抱きついて、泣きじゃくっていたあの頃とは全く違う。多分、5センチくらいは今の寿樹の方が大きいのだろう。
肩幅も、離れて見ていただけでは気がつかなかったが、自分よりしっかりとしているし、なにより程よく鍛えられている。
高校も大学も文系で、ろくにスポーツもしてこなかった自分とは、雲泥の差だ。
だから壁に押し付けられるように掴まってしまったら、到底逃げることなんてできはしなかった。
いや ―― 逃げようという考えも、浮かばなかったと言ってもいい。
「寿樹…?」
力が余って壁に叩きつけられるように押さえ込まれたため、強く背中をぶつけた痛みがまだ残っている。
掴まれた手首も段々痺れが出てきそうなほどの強さで振り払うこともできず、文字通り、身動きが取れなかった。
だから、
「殴りたいなら、遠慮することないんだぞ。お前と母さんには、本当にすまないと思っているから…」
そう呟くと、成樹は苦しそうに視線を外した。
父親の残した借金のせいで、あの頃の生活ときたら本当に大変なものだった。
酷いときには、一日の食事が菓子パン一つで。それを兄弟2人で分けあって食べたりもしたものだ。
そんな生活の中、成樹だけが父方の祖父母に引き取られることになり ―― 少なくとも、三度の食事は確実に食べることができる生活になったのだ。子供心に、どこかほっと安心したことは今でもしっかりと覚えている。
そう、引き取られたのが自分だけで、母と幼い弟はそのまま貧しい生活を余儀なくされていると知っていたのに ―― だ。
だから、
(俺だけが裕福な生活をしてたんだ。母さんや寿樹が恨んでいるのも ―― 仕方がない)
そのことは、成樹の心の奥に突き刺さった棘のようにずっと鈍い痛みを与えつけてきたのは言うまでもない。
それが、殴られることで少しでも解消するというのなら、寧ろ心から願ってもいいくらいだ。
ところが、
「違うっ! 違う、違う、違うっ! 何でそんなこと言うんだよっ!」
ブンブンと頭を振って叫ぶ寿樹の姿に、成樹は幼い時の姿を垣間見た気がした。
幼い頃の寿樹は、自分の思い通りにならないとこうして頭をブンブンと振って癇癪を起こしていた。
そして、まわりの視線も気にせずにわんわんと泣き出すから ―― よく一緒に手伝ってやったものだ
『やだやだぁー…。僕がやるのに…っ! 一人でできるんだもんっ!』
『そうだね、寿樹ならゆっくりやれば一人でできると思うよ。でも、兄ちゃんもやってみたいから、手伝わせて欲しいな』
それは2人でよく遊んだ公園の砂場であったり、通っていた保育園での作品作りであったりしたけれど。
(…変わらないな、こういう癇癪持ちのところは。全く…)
気が強くて、自分からは手伝ってくれとは言えないことは判っていたから、そう言って手伝わさせてもらうように言えば本当に嬉しそうで。
なんでもそうやって2人でやるというのが日常だった、あの頃。
そんな昔を思い出した成樹だったが、やはり「今」は「あの頃」とはすっかり変わっていた。
「行かせないよ、兄ちゃん。もう二度と、俺から離れるなんて許さない」
泣きじゃくっていたあの頃とは違って、寿樹は自分の心を落ち着かせるように一つ大きく息を吐くと、そう言って成樹に顔を近づけてきた。
「とし…き?」
昔とは全く違う ―― 男の顔で。まるで獲物を捕らえた野生の獣のように鋭い視線で。
反射的に「怖い」と思った成樹でもあったが、何故か視線をそらすことはできなかった。
寧ろ魅入られたように身動き一つできなくて。
「もう誰にも渡さない。あんたは…俺のものだ」
そう言われて唇を奪われた瞬間、成樹の思考は真っ白になっていた。
(え?)
初めは触れるだけのように軽いKISS。
しかし、
「…んっ!」
やがて角度を変えて深く貪るようなものに変われば、流石に成樹もこの状況に気がついた。
(これって…キス? え? 寿樹と…?)
目を閉じることも忘れて呆然としていたから、睫の数まで数えられそうなほどの距離に寿樹がいることに改めて驚く。
いや、それ以上に、
「やっ…め…」
今まで女性との付き合いですらない成樹にしてみれば、これがはじめてのキスである。当然、初めてであるからどうしていいのかなんて判らない。
それこそ息をすることさえ忘れてしまっており、その苦しさで抗議をしようと口を開けかければ、
「んっ…ぁあっ!」
それを見逃すことなく、寿樹の舌が侵入してきた。
「うぅっ…ン…はぁ…っ…」
まるで何もかも吸い尽くされてしまいそうな激しさに、怖くて何とか逃げようとする。
勿論、舌を噛んでやれば助かるかもしれないなんてことは微塵も思いつかなかった。
しかも、そこは寿樹の方がはるかに上手で、更に深く舌を絡み取られれば、飲み込みきれない唾液が、成樹の口の端から零れている。
それを更に舐め取るように寿樹の舌が追いかけ、くちゅっと音を立てて漸く離れた。
そこを、
―― バシーンっ!
漸く我に戻った成樹の手が寿樹の頬を叩き、泣きそうな目で睨むと、
「 ―― !」
成樹は、寿樹を殴った手を胸に抱え、その場を走り去った。






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初出:2007.07.31.
改訂:2014.10.05.

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