暁に見る夢 11


ちらりと見ればそろそろ出かけなくてはいけない時間になっていた。しかし、成樹は何度も時計を見ながらも、そこから動けずにいた。
決してこの部屋が快適すぎるというのではない。むしろそれを言うなら逆だろう。
何せ今時こんな部屋を借りる者がいるのかと思えるような、古くてみすぼらしいアパートである。
一応、炊事ができるようにキッチン ―― というのもおこがましい ―― はついているが、それも申し訳程度のガスコンロが一口に、大皿など洗うにも一苦労しそうな流しがあるだけだ。
当然トイレは全部屋での共同だし、風呂に至ってはそろそろ廃業するらしいと噂になっている銭湯が3ブロックほど先にあるというくらいだ。
肝心の部屋は6畳一部屋しかないが、おそらく箪笥でも置けるようにという配慮なのか、一応隣室との境にもなっている壁側には幅半間程の板間がついている。
しかし、今そこには屋敷を出た時に持ってきた古いボストンバッグが一つと、その後叔父夫婦が送ってくれた段ボール箱が2つほど積み重なっているだけだった。
勿論テーブルやベッドなどといった家具などあるはずもない。一番大きな家財と言えば、ちょっと使い込まれた布団が一組というくらいだろう。
つまり、それが現在の成樹の全財産というわけである。
全く、今時の若者の生活環境としてはあまりに質素 ―― と言わざるを得ないだろう。
しかし成樹にとっては、少なくとも2年前まで暮らしていたあの屋敷よりははるかに住み心地は良かったのも事実だった。
少なくとも、ここにいるのは自分一人。他人の視線を気にして生活する必要もないのだから。
とはいえ、
「…やっぱり、仕事に行かないと…」
口ではそう呟いてみるものの、身体の方は動くことを拒否したように座り込んだままだった。
ちなみに家賃は約2万円。幸い3日ほど前に来月分の支払いを済ませているから、今日一日バイトに行かなくても、家賃滞納で追い出されるという心配はないが、食べるものの方はさすがにストックがない。
というか、何せ冷蔵庫すらないのだ。ストックなどできるはずもない。
幸い、元々が小食な体質でもあったのだが ―― それでも昨日の昼から何も口にしていないのだ。
おかげで、流石に空腹 ―― それよりも喉の渇きの方が大きく感じるところでもあり、外に出て何か買ってこなくてはということは判っていた。
それにバイトを休むにしても、携帯は勿論のこと、固定電話でさえ持っていないのだ。
外に出て、かろうじて撤去されずにいる公衆電話で連絡を入れなければ無断欠勤になってしまうのも判っている。
だが、それこそ文字通り、腰に根が生えてしまったかと思うほどに、成樹の身体は動くことを拒否していた。
唯一つ、それは考え込む時の癖で、手を唇に近付けるという行為を除けば。
そして、
「…あっ…」
どうしようかと、何気に思考の迷路にはまりながらいつものように何気に指を唇に持っていけば ―― その瞬間、思い出すのはあの時の感触であった。
その上、この部屋に帰ってからもう何度目になるかも解らないというのに、その瞬間、カッと身体中が火照ったように熱くなる。
最初は、ほんの触れる程度の軽いKiss。
しかし、気がつけばまるで貪るような激しいものになって、くちゅっと音を立てて舌を絡められた。
飲み込みきれなかった唾液が溢れて、顎を伝った感触でさえ鮮明で。
あまりの恥ずかしさに、誰もいないというのに、顔を上げていることさえできなくなる。
「なんで…あんな…」
成樹にとっては生れてはじめてのKissである。当然、どうしていいかなど判らなかったから、抵抗することなどできはしなかった。
だから、目を閉じることもできなくて、自分の唇を奪う寿樹の表情だって覚えている。
どこか幼いころの面影を残しつつ、それでいて比べようのないほどに精悍さを思わせる男の顔で。
『行かせないよ、兄ちゃん。もう二度と、俺から離れるなんて許さない』
そう言って、まるで支配するのが当然というような表情を向けられて、逃げることさえできなかったのだ。
事実、物理的にも壁と寿樹の身体に挟まれていたから、逃げ場なんて全くなくて ―― 。
ゆっくりと近づいてくる寿樹の表情を見つめることはできても、拒絶することなんかできなかった。
そんなことを思い出しながら ―― 成樹は何かが違うということに気が付いていた。
いや、本当にそうだろうか?
自分だけを見つめてくれる視線は、確かに怖いと感じていた。
でもそれと同時に、自分だけを見てくれるということに、嬉しさを感じてはいなかっただろうか?
いやそれどころか、相手は同じ男で、しかも実の兄弟である。
自分は世間には疎い方だと自覚はしているが、同性同士で恋愛をする人達がいるということは知らないわけではない。
流石に今までそういう人たちが身近にいたわけではないから、知識として知っているというくらいであるのは否めないし、共感できるとは到底言えないのも事実だった。
ましてや兄弟でなどということは、今までの成樹の倫理感からみればそれこそ別世界の出来事であるはずだ。
それなのに、寿樹とのキスに嫌悪感というものを微塵も感じていないことに、成樹は今になって気が付いてしまった。
「な…んで? え? 俺、どうし…て…?」
確かに突然キスされたことは驚いたし、あの時の寿樹が怖かったのも事実である。
だから無我夢中で寿樹を殴って逃げ出したのだが、それは嫌悪からのものではなかったというのは紛れもない事実だった。
それどころか、今だってこうして部屋から出られないでいるのも、突き詰めれば寿樹と顔を合わせることが恥ずかしいからに過ぎなくて。
ましてや、顔を合わせて、あれは冗談だったなんて言われたら ―― その方が、はるかに辛い。
そう思ってしまえば、それが意味するところと言えば ――
(いや、違う。久しぶりの再会だったから、だから、お互い不安定になっているだけなんだ)
そう自分に言い聞かせてみても、それこそそんな言葉は言い訳でしかないことも判っている。
(いや、それこそ違う。俺は寿樹に逢えて…いや、だめだ。でも…)
認めまいとする理性と、認めようとする感情に激しく動揺してしまう。
そんなとき、
「成樹? いるんだろう?」
「 ―― っ!?」
突然ドアの向こうから呼びかける声に、成樹の心臓は止まってしまうかと思うほどに動揺していた。






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初出:2007.09.09.
改訂:2014.10.05.

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