暁に見る夢 13


一人で場末の酒場にしけこんでいた寿樹の元に母危篤の連絡をしてくれたのは、あのナンシー・ママであった。
「トシちゃんたら、もう、何やってんのよ!」
店ではナンバー5から落ちたことのない寿樹である。当然、持っている私服も一流であれば、いつもならオフの時でもそれなりの身だしなみをしていたはずだ。
しかしこの日は、しわくちゃになったスーツに髪はボサボサ、その上、無精ひげまでうっすらと見せていた。
それは、寿樹とは付き合いの長いナンシーでも、始めて見るような酷い有様といえる。
だが、今はそんなことに構っている場合でもなかった。
「とにかく急いで病院に行くわよ。ほら、立って!」
「ん…」
ところが、カウンターに突っ伏すように蹲っている腕をナンシーが掴めば、そのまま寿樹は糸の切れたマリオネットのようにツールから転がり落ちた。
本人は全く自分で立ち上がろうという気もないようだ。
「もう、どうしちゃったのよ? いつものトシちゃんらしくないじゃないっ!」
そうけしかけてみても、肝心の寿樹には全く通じていないらしい。
「ほら、しっかりしてよっ!」
ちょっとヒスを起こしたように怒鳴ってみるが、寿樹の方は全く意にも解していないようで、流石のナンシーも呆れたように大きくため息をついた。
場合が場合であったので詳しくは聞かなかったが、成樹と何かあったらしいということは裕司の口調で察していた。
(全く、ちょっと兄弟喧嘩したくらいでっ!)
いつもであればそう言って怒鳴ってやりたいところであるが、流石にそれは心中に抑えた。
確かに樹理のことは最早手遅れであり、それこそ、いつ容体が急変してもおかしくないと言われ続けてきていたので覚悟はあったのだろうということは理解できる。だが、それでも母親には情の深かった寿樹であれば、その時になればやはりショックは受けるだろうと思っていたナンシーであった。
それが、急変と聞いた瞬間は流石に顔色を変えた寿樹であったが、それでも自分から立ち上がろうとしないのは ―― それほどまでに、成樹とのことが尾を引いているのだろう。
(もう、よりにもよってこんな時に!)
偶然ではあるが、そう思ったのはナンシーだけではなく、同じころ別の場所で裕司もそう呟いている。
だが今はそんなことをとやかく言っている場合でもなくて、
「何があったのかは知らないけど、今は樹理ちゃんのところに行くのが先よ。ちゃんと自分で立ちなさい、トシちゃんっ!」
相変わらずのオネエ言葉であるが、いつものようなわざと甲高くした声ではない。
野太い男の声でそう言い放てば、漸く寿樹も思い直したように立ち上がった。
ただそれでも、どこかまだ煮え切らないようで。
苦しそうに歪めた顔を俯かせたままカウンターに寄りかかると、絞り出すような声で呟いた。
「ママ、あの…悪いんだけど…」
いつもなら小憎らしいほどに高飛車な態度も見せる寿樹である。だが、そんな普段の様子が嘘のようにしょげかえってみせると、ナンシーは
「ちょっとやだ、まさか病院には行かないなんて言うんじゃないでしょうねっ!?」
「いや、そうじゃなくて…」
まさに仁王立ちというに相応しいナンシーから眼を逸らすように俯くと、寿樹はか細い声でポツリと呟いた。
「成樹…兄さんにも、母さんのことを…」
まさかこんなに急に樹理の容体が悪くなるとは思っていなかった寿樹である。それどころか、成樹と再会できたことだけをただ喜んでいたのだから、樹理のことを話す機会なんてなかったのだ。
ましてやあんなことをしてしまったあとである。それでなくても顔を合わせづらくて逃げていたのだから ―― こんな話、なおのことできるはずもない。
だが、
「大丈夫よ。そっちは裕ちゃんが行ってくれてるはず。心配いらないわ」
そう ―― 先ほどまでの怒ったような口調からは信じられないように優しく語れば、寿樹はまるで泣き出す寸前の幼子のような目でナンシーを見上げた。
「あっ…でも、俺…兄ちゃんに…」
「大丈夫。トシちゃんのお兄ちゃんでしょ。ちゃんとわかってくれるわ」
何を判ってくれるのかはあえて触れずにそう言えば、漸くその気になったのか、寿樹はのろのろとナンシーに引きずられるように歩きだした。






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初出:2007.09.16.
改訂:2014.10.05.

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