暁に見る夢 14


白いベッドに寝かされていた母は、覚えていたイメージよりもずっと小さく感じた。
(こんなに…小さかったっけ?)
最後に逢ったのは祖父の家に預けられた8歳のときのこと。
まだ小学2年生の子供から見れば、幾ら細身とは言っても大人の母は優しく包み込んでくれる大きな存在であったのだ。
それが、今ではこんなに小さく細くなってしまって。
この16年間で相当の苦労をしたのだろうと思えば、成樹にはかける言葉も見つからなかった。
しかし、
「…成樹…?」
不意に瞼がピクリと震え、黒い瞳が成樹の姿を捉えた。
「成樹なの? 本当に…?」
まるで虫の羽音ほどの小さな声だが、確かに乾いた唇は成樹の名を紡いだ。
「本当に…?」
白くて細い腕が、震えながら差し伸べられる。
それを思わずしっかりと握り締めると、成樹は
「…そうだよ、母さん」
そう呟いてベッドの脇に跪いた。
「ごめんね、来るのが遅くなって。もっと早くに来なくちゃいけなかったのに」
「いいえ、母さんの方こそ…ごめんなさいね。貴方を…ずっと一人にさせてしまったわ…」
どんなときでも笑顔を絶やさなかった母の目からは、すっと涙が一筋零れていた。
そして、
「貴方を捨てた母さんを…恨んでいる?」
(え?)
そう聞かれた瞬間、成樹は咄嗟に言葉を失った。
恨んでいるとしたら、それは母や寿樹の方だと思っていた。
あの貧しかった生活の中から、自分ひとりが逃げ出したのだ。
小さな村ではあったが父の実家は代々名主として君臨していた旧家で、そこに引き取られるということは衣食住が保証されたも同然であったのだ。
そんな境遇に自分ひとりだけが甘んじて、母や寿樹がその後も苦労しただろうと思えば、申し訳なくて仕方がなかった。
だが、
「何度も後悔したの。どんなに苦しくても、やっぱり親子で一緒に暮らしたいと。だから何度も貴方を返して欲しいとお願いしたんだけど…どうしても許していただけなくて…」
祖父に預けられた後、暫くは母が訪れていたということは村の噂で聞いていた。
だが、そこで聞いていたのはそんな内容ではなかった。
『またあの女が来たらしいよ。』
『ああ、都会モノは恥知らずだね。子供を売った挙句に、まだ無心に来ようっていうんだから』
『若さんを篭絡したぐらいの女だからねぇ。とんだあばずれだよ』
子供心にも、母が村の者に酷く言われるのは心が痛かった。だが、自分ひとりが裕福な生活を享受するということに負い目を持っていた成樹には、金を無心に来ていたと聞かされれば、そこでのうのうと生活している自分のことも恨んでいるだろうと思い込んでしまったのは無理もない話しだったのだ。
ところが、
「あのジジイが許さなかったんだ。自分を裏切った親父の身代わりに兄さんを利用するために。それどころか、母さんから金だけは巻き上げやがって…」
「え?」
突然現れた寿樹の姿よりも、聞かされた内容の方が驚きだった。
「思い通りに育てたはずの親父に反抗されて、よほど腹に据えかねてたんだろう。だから、言うことを聞きそうな兄さんに目をつけて俺たちから奪い取って。そのくせ、親父の借金は母さんに払わせてたんだ」
そんな話は、微塵も聞いていない。それどころか、父の借金は祖父が肩代わりしたと聞いていたくらいだ。
借金は全部肩代わりした。成樹のこれからの生活も保障する。だから、渡井家のために尽くせと引き取られたその日に誓わされた。
それが全くの嘘だったとは ―― 。
「そんな…だって、お祖父様はそんなこと…」
「兄さんに言うわけないさ。大事な親父の身代わりだからな。また逃げられたら、それこそ渡井の家を潰すことになる」
流石に高校や大学に通うころになれば、父が何故家を出たのかは知るところになっていた。
家に雁字搦めに縛り付けられることに嫌気が差して、父が飛び出したのが大学を卒業した頃。
その後、知り合った母とともに暮らすようになったらしいと噂には聞いていたが、元が御曹司として育てられた父には、肩書きもないところでの生活力はなかったのだ。
しかも人を疑うことを知らない世間知らずなところもあったから、友人という名に騙されて借金を作ってしまい、気がついたときには身動きすら取れないほどに膨らませてしまっていた。
そして、元々籍を入れていなかったことを幸いにと母や自分達の前からまで姿を消してしまって。
そうすれば、借金取りが母や自分達のところにくることはないと思っていたらしいのだから ―― 甘いにも程がある。
だがそんなことよりも、
「知らなかった…ごめん、母さん…でも、俺は母さん達を恨んだことなんて一度もないよ。寧ろ俺だけが良い生活をしてて、それが申し訳なくて…」
そう言って涙を流せば、
「ううん、そんなことはいいのよ。貴方が、こんなに元気に立派に育ってくれたから。それだけは…お祖父様に感謝しなくてはね」
幼い頃と同じように、ゆっくりと頭を撫でてくれるその手は温かかった。
自分から息子を奪った相手であるのに、そんな風に言える母の大きさに成樹は言うべき言葉を持たなかった。
そうだった。どうして母が恨んでいるなんて思ってしまったのだろう。
どんなことがあっても、人を恨むような母ではなった。
借金を残して逃げた父のことも恨み言一つ口に出さなかったし、生活が苦しくても、愚痴の一つも言うことはなったのだ。
だから、
「ただ…一つだけ、お願いがあるの」
そう言われれば、成樹に否はありえない。
「寿樹のことをね、お願いしたいの。この子、貴方の言うことならちゃんと聞くわ。ちょっと我儘で意地っ張りだけど、ずっとお兄ちゃんに会いたくてがんばってきたのよ」
それが、母が最後に成樹に残した言葉だった。






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初出:2007.09.24.
改訂:2014.10.05.

Paine