Tears 03


桜ヶ丘学園の高等部には新館と旧館の二つがあり、学年別の教室があるのが旧館で音楽室や理科室といった特別教科室は新館の方にある。
そして生徒会役員室も新館の最上階、四階の南角にあった。
一方で旧館の方は一階から一年、職員室、二年、三年の四階建てで、それぞれの二階と四階部分で新旧の建物が連結されている。
「あの、すみません…」
一階から四階まで駆け上がったため、流石に息が切れている。それを何とか落ち着かせて、祐介は生徒会役員室のドアを叩いた。
「だれ? なんか用?」
中から出てきたのは、たった今まで寝ていたという感じの男子生徒だった。
桜ヶ丘高校は制服着用が義務付けられているのだが、ネクタイはかろうじて首にかかっているという感じだし、シャツも第二どころか第三ボタンしか留まっていなくて、だらしなくズボンからはみ出ている。
当然、ブレザーの上衣は着ていない。
「あ、あの…生徒会長は…」
ちょっと考えてみればそろそろ授業が始まる時間である。生徒会長といわれるくらいの者なら、当然教室にいるはずであった。しかし、
「あん? 尚樹センパイに用か? 残念、可愛い子ちゃんだから、俺のファンかと思ったのに…」
といいながら、その生徒は不意に祐介の腰に手を回した。
「あんな極悪人より、絶対俺のほうが良いよ? どう?」
「え? あ、あの…どうって…」
腰を抱かれて引き寄せられたため、すぐそこに顔が近づく。
切れ長の瞳に深紅の唇。
ちょっと小悪魔的な微笑を浮かべるその男子生徒は、美人というよりは可愛い系の顔立ちをしていた。
それだけに、乱暴な口の悪さがギャップとなって、つい戸惑ってしまう。
と、そんな時、
「カズ、こんなところでナンパしてるんじゃない」
背後から低い声が届き、いち早く気が付いたその男子生徒がペロリと舌を出した。
「ちぇっ…いっつも、いいところで邪魔すんだから…」
「新学期早々、サボってるなよ。生徒会役員が出席日数が足りなくて留年なんて、笑えないぞ」
生徒会役員と言われて、祐介は思い出した。確か、入学式の後のオリエンテーションの時に紹介された、書記の…
「判ってるって、しょうがないなぁ〜。あ、こちら、尚樹センパイのお客さん。なんか話があるみたいですよ」
そういってその男子生徒 ―― 生徒会書記の草嶋和行が出て行く。
残されたのは祐介と、生徒会会長の五十嵐尚樹。
尚樹は祐介が来た理由など予想についていたのだが、あえてそれを知らないようにして見せた。
「確か、唐沢君だったね? 話なら中で聞こう。入りなさい」
「あ、はい…」
どきどきしながら尚樹の後に続いて祐介も部屋に入る。
尚樹は三年生、祐介は一年生。
たった二年の違いであるが、その差がこれほどまでに大きいということに祐介はいまさらながら思い知らされていた。
確かに尚樹は生徒会長というだけあって、大人顔負けの貫禄があるし、実際にその姿もりりしいと言うにふさわしい。行動の全てが洗練されていて、自分とは比べ物にならないくらいの頼もしさを感じる。
「適当に座ってくれて良いよ。何か飲むかい?」
「あ、いえ、結構です」
「遠慮しなくていいよ。珈琲入れるけど、飲むかな?」
「それじゃあ、頂きます」
暫く沈黙が続き、尚樹がカップに珈琲を注ぐ。そしてそれを祐介に差し出すと、尚樹はおもむろに尋ねた。
「それで、話っていうのは何かな?」
判っていながらわざと問いただすのが悪い癖であることも自覚はしていたが、目の前の少年がどう言い出すのかを見てみたいと言う好奇心のほうが強かった。
「あの…僕、郁巳…友達から僕のせいで野球部の今年の予算が大幅カットされるって聞いて、それで…」
「郁巳?」
「あ、クラスメートの川原郁巳です」
「川原…ああ、弥生の弟か」
弥生とは腐れ縁であるため、その弟も良く知っている尚樹である。
(さては、あの姉弟が仕組んだか?)
元々、尚樹は野球部に好意的ではなかった。
育ちのいいお坊ちゃん、お嬢ちゃんが多いこの高校では、どうしても部活動も文科系の方が成績がいい。
同じ運動系でもテニス部などはわりといい成績を出しているが、その他は趣味の範囲から出ていないのが事実である。
それなのに、大人たちにしてみれば高校といえば高校野球というイメージがあるのか、例年、野球部には破格の予算が支給されており、野球部のほうもそれが当然という感じであった。
そもそも未だ都大会で一勝もしていないくせに野球部だけが外部からコーチを雇っているというのはどういうことか? いままで問題にならなかったほうがおかしいはずだとさえ思っていて。
その挙句が昨日のあの騒ぎである。野球部の愚かさは目に余るとしかいいようがない。
勿論、いつもの尚樹ならこんなストレートなやり方はせず、もっと頭脳的に廃部に追い込むところなのだが、克己の件でバイオリズムが下がっているのは仕方がなかったかもしれない。
「昨日の騒ぎの件は、僕が悪かったんです。ちゃんと先輩たちに理由をいってなかったから…。それがこんな大事になっちゃって…」
「いや、君のせいじゃないよ。元々、入部するかしないかは個人の自由だ。入部しない理由だって、本来は『入りたくない』の一言で充分なんだからね。それをあんなふうに強制するのは校則違反の何ものでもない」
正論ではあるが、祐介としても「はいそうですか」とは言えない。
「でも…」
「でも…何かな?」
尚樹には、はっきり祐介の気持ちが判っていた。
それはそうだろう。どう考えても自分が原因でこんな大事になっているというのに、黙っているのは忍びない。
だが、意地悪く見れば悲劇のヒロインならぬヒーローとも見れる。自分さえ我慢すれば ―― みたいな安っぽさは、はっきりいって毛嫌いしている尚樹である。更に、克己の件で苛ついている今の尚樹には気持ちに余裕がなかったのも事実であった。
ところが、
「確かにもう僕には野球はできません。でも、僕、野球が好きなんです。本当は今だって投げたい。やめたくない。でも、こんな使い物にならない肩じゃあできないし…。せめて応援だけでも続けたいんです。それなのに、それなのに…」
祐介の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。肩を震わせて、膝に置いた手を握り締めて。決して泣き声は上げず、ギュッと唇を噛み締めているその姿が、尚樹の記憶の中に残るあの姿に重なった。
満開の桜の木の下で、たった一人、声も立てずに泣いていた。あの人の姿が ―― 。
「だから、だから…」
「…もういいよ。判った。野球部の件は白紙に戻そう」
気が付くと、尚樹は肩を震わせて泣いている祐介を抱きしめていた。そして、
「もういい、判った。判ったから…君も泣きたいときは思いっきり泣くといい」
一瞬、びっくりした祐介であったが、尚樹の広い胸に抱きすくめられてそう囁かれると、まるで堰を切ったように今までの思いが溢れ出した。
もう二度とピッチャーとして投げられないと宣言されたあのときから押さえていた全てが。
今までずっと押さえてきたその全てが。
「うっ…ちくしょう…なんで…なんで ―― !」
感情の赴くまま、声を上げて泣き出す祐介を、尚樹はぎゅっと抱きしめていた。






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初出:2003.03.30.
改訂:2014.09.28.

Silverry moon light