Tears 07


尚樹が家に帰ると、玄関には利恵が待っていた。
「お帰りなさい。尚樹お兄様」
「…ただいま」
ただならぬ利恵の気配に、尚樹の瞳が冷たく光る。
利恵は現在12歳で、やはり桜ヶ丘学園の初等部に通っている。
長い黒髪を腰まで垂らした深窓のお嬢様風外見であるが、か弱いとか繊細というイメージからは程遠い。
それというのも、母親譲りの活力に満ちた瞳がどうしても気の強さを見せ付けてしまうからで、実際、初等部の児童会役員も務めていた。
と、此処までは尚樹と似たり寄ったりであるのだが、決定的に違うのは、利恵は絶対に表に出ようとしないことであった。
児童会の役職も書記であって会長ではない。利恵の信条は『名を捨てて実を取る』であって、裏で糸を操る黒幕になることが望みであった。
何せ、将来の野望は『克己と結婚して、尚樹や政樹から五十嵐病院を乗っ取ること』と公言しているくらいなのだから。
その利恵が尚樹や政樹に『お兄様』と呼びかけるときは、大抵、腹に一つも二つも企みがある時に違いない。
「克己兄さんの部屋に泊まってたヤツ、どうやら出て行ったみたいね」
「…らしいな。マンションの管理人から連絡があった」
克己の一人暮らし阻止を出来なかった尚樹は、既に次策として管理人の買収を成功させていた。資金源は、別名で取引をしている株の収益である。
「それがね、さっき克己兄さんの携帯に連絡があって、明日六時から食事に誘われてるみたいなんだけど」
「明日? そうか、兄さん、明日は休みか」
靴を脱ぎながら、尚樹が策略をめぐらせる。
既に尚樹の元には克己が助けた男 ―― 藤代龍也の情報が入っている。
広域指定暴力団蒼神会本家藤代組の若組長で藤代興業株式会社の社長。どちらも正式にその職についたのはこの春からとはいえ、既に統制はとれており、その手腕は侮れないものが在る。
写真でみる姿も自信に満ちて、生まれながらにして上に立つ者の貫禄を持っているのがわかる。
克己よりは年下にも関わらず、認めずにはいられない大人の男 ―― 。
「どうするの? 認めちゃうわけ?」
相手が女性の場合、余程図太い神経の持ち主でなければ克己と一緒にいることは出来ない。
最初は一緒にいて注目される優越感に浸れたとしても、やがては比較されていると言うことに気がつくからだった。
男の場合にしても無防備すぎるがゆえに逆に手出しが出来ないというパターンが多く、それでも手を出して来ようとする輩に対しては、密かに排除してきた尚樹である。
しかし、今回は ―― 。
「克己兄さんから断るように仕向ければいいな。悪いが今夜は克己兄さんを借りるぞ」
「え? 私も連れてってよ」
「小学生が午前様はヤバイだろ? 帰ってきたら交代してやる」
「えーつまんないの。ま、仕方がないか」
自分が子供っぽいことをしていると言う自覚はあるが、こと克己に関しては形振り構わない尚樹であった。



「そろそろ帰らない? もう12時回ったよ」
行きつけのカラオケルームに陣取って既に五時間近くが経過していた。
流石にレパートリーも尽きてきて、歌本をめくる手も止まりがちになり、克己が疲れたように呟く。
「いいじゃん、明日は学校休みだし」
「克己兄さんだって休診日だろ?」
「まぁ…でも一応、予定があるんだけど」
「いいから、いいから。さぁて、次は何を歌おうっかなぁ?」
狭い部屋に男三人。
それでなくても蒸し暑いこの時期では、むさ苦しいイメージしかわいてこないものなのに、この部屋をチラリと覗いた客は、皆一様にドアの前で立ちすくんでいる。
それもそのはず、メンズモデルも裸足で逃げ出しそうな双子のいい男に、これまたどんな女優も太刀打ちできないような絶世の美人の組み合わせである。
どこかでカメラが回ってるのではと、本気で探す客もいるほどだった。
五十嵐家での夕食後に、テスト明けの息抜きと称して三人で出かけて既に日付が変わっている。
付き合いのいい克己はなんだかんだと言いながらも尚樹たちを置いて帰るということができず、ずるずるとつき合わされていた。
「全く…政樹は彼女を誘えばいいのに。千秋ちゃんとケンカでもしたの?」
「ご心配なく。千秋とは明日、買い物につきあう約束してるからね。大体、こんな時間までつき合わせるわけには行かないでしょ」
千秋というのは、政樹の彼女で克己も面識があった。
両方の家族も公認なので多少の夜遊びは許されるだろうが、確かに午前様というのは問題になりかねないのだろう。
「そういう克己兄さんこそ、明日…あ、もう今日か。予定があるって、まさかデートじゃないよね?」
実は龍也に食事を誘われているというのを知っているくせに、わざとカマを掛ける。
こういうことを軽いノリで聞けるのは政樹の得意技であった。
「え? デート? そんなんじゃないけど…」
一瞬、ドキッとして言葉を詰まらせる克己を尚樹は見逃さない。






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初出:2003.04.12.
改訂:2014.09.28.

Silverry moon light