Tears 08


克己と尚樹とでは、9歳の年の差がある。しかし、天真爛漫な克己はいくつになっても子供っぽく、無邪気で ―― 危なっかしい。
世の中の裏を知り尽くしている尚樹にすれば、保護欲を掻き立てられずにはいられなかった。
物心ついた頃どころか、生まれたときから兄弟のように殆ど一緒に育った仲でもある。
ただ、逆にそのせいか、克己に欲情を感じたことは無かった。
政樹には彼女がいるが、現在のところ尚樹はフリーである。というより、かつては弥生と付き合ったのを最後に特定の彼女は作っていない。
そのかわり、身体だけの付き合いと言うのは複数あり、その中には同性もいるのも事実である。
にも関わらず、克己をそういう目で見れないのは、何故か ―― ?
「大体さぁ、克己兄さんは結婚とか考えてないの?」
政樹も、もちろん克己のシンパではある。しかし、それはあくまでも従兄弟としてであって、尚樹ほど切実ではなかった。
だからこそ、彼女ともうまくいっているのだろう。
「結婚?」
突然の話の飛躍に、克己がビックリして声を上げる。尚樹も、驚いて克己を見つめた。
「だって、克己兄さん、もう27だろ?」
「まだ27だよ」
「でも、その頃の亜紀子さんはもう、克己兄さんを生んでたでしょ」
「…ま、そうだけど」
克己の両親は高校生で結婚しており、今の克己の年齢の時には、既に小学生の子持ちであった。
「っていうか、うちは早すぎだったの。父さんと一緒にしないでよ。今は仕事が精一杯で、結婚なんてまだまだ先なんだから」
「ふぅ〜ん。ま、そんなことになったら利恵が黙ってないだろうケドね」
「…それは言えてるな」
自分のことは棚に上げて尚樹がそういうと、克己も苦笑しか出来なかった。



そんなやり取りもしながら、流石に丑三つ時はまずいだろうと五十嵐家に帰って来た三人だったが、玄関を開けようとしたところで尚樹と政樹の父、五十嵐病院の院長である利行にばったりと鉢合わせた。
「克己、いいところに帰ってきた。急患だ」
「えっ…急患?」
それまで眠そうにしていた克己が、さっと顔色を変える。医者には深夜も早朝もないらしい。
「トラックと自家用車の正面衝突に玉突きが重なって怪我人がかなり出たらしい。行けるか?」
「大丈夫だよ。すぐに行く」
そう言って、すぐ家の前に停めていた自分の車のエンジンをかける。
「今日は楽しかったよ。二人とも、夜更かしは程々にして、ちゃんと寝るんだよ」
運転席の窓からそういうと、克己は病院へと向かっていった。それを尚樹たちは見送って、
「大変だよな、やっぱり」
「そうだな。でも、克己兄さん、医者って職業が好きだから…やっぱり、早く可愛い嫁さんを貰えばいいのにな」
政樹の何気ない一言が、尚樹には引っかかる。
「何でそうなる?」
他のことなら遥かに政樹より冷静な尚樹も、克己の事となるとまるで子供で ―― むしろ、政樹のほうが視野が広い。
「あん? だって、『キレイな嫁さん』は無理だろう? 克己兄さんより美人はまずいないからな。だったら、可愛い路線しかないじゃん」
「そうじゃなくて…」
「じゃあ、何? 克己兄さんに、『一生独身でいてください』ってお願いしたいわけ? お前にそんな権限はないだろ?」
「 ―― !」
一瞬、尚樹の両手に力が入り、政樹をにらみつける。
しかし、政樹のほうも負けずに睨み返し ―― やがて、ふぅっとため息をついた。
「いい加減に、克己兄さんを自由にしてあげろよ。わかってるんだろ? 克己兄さんがこの家を出た本当の理由…」
「…」
政樹の言葉に、尚樹は握り締めた拳をゆっくりと下ろしていった。



白々と東の空が明るくなっても、尚樹は眠りに着くことができなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打ち、眠りにつけない息苦しさが離れない。
―― いい加減に、克己兄さんを自由にしてあげろよ。わかってるんだろ? 克己兄さんがこの家を出た本当の理由…。
無理に眠りにつこうとしても、政樹に言われた言葉が、何度も頭の中でリフレインしている。
「ああ、判ってるさ」
ベッドの上に起き上がって、不意に呟く。
そう、判っている。今更、政樹に言われるまでもない。
克己の母、亜紀子は、生まれながらにして心臓が悪かった、だからこそ利行が溺愛し、京子が実の姉のようにずっと見守っていた。
ところが、そこに克彦 ―― 克己の父親 ―― が現れ、亜紀子と恋に落ちた。亜紀子が17歳、克彦は16歳のときである。
物心ついた頃から長くないと言われ続けた亜紀子は、克彦の子供を宿した。
無論、本来なら心臓の弱い亜紀子に出産など出来るはずがない。
周りは一様に諦めることを進めたが、亜紀子は決して譲らなかった。
それは克彦も同様で、二人は駆け落ち同様に克彦の伝のあるドイツに行き、そこでなんとか克己が誕生した。
そして一年後に帰国し、亜紀子は克己とともに五十嵐家に戻った。克彦は、克己が無事に生まれるためにかかった莫大な医療費のため、ある仕事につき、二人の側にいることは出来なかったのだと聞いていた。
以後、亜紀子は一年の半分をベッドの上で過ごすようになった。そのため幼い克己は利行と京子の手に委ねられ、いつしか、亜紀子の身代わりになっていた。
何をしても亜紀子と比較され、亜紀子と同じように溺愛される。
思えばよくスポイルされなかったものである。但し、いつしか克己の本心が心の奥底に隠されるようになったのは事実である。
そして ――
覚えているのは、克己の母親、亜紀子の葬儀の日のこと。
ふと姿が見えなくなった克己を探しに行った、尚樹だけが見てしまったあのときの情景。
それは、満開の桜の木の下で、膝を抱えて、声もたてず泣いていた克己の姿だった。
人前では決して涙を見せず、むしろ利行や京子に気を使い『大丈夫』と微笑んでいた克己だった。
それが、誰もいないところでは泣いていたのだと思い知らされたあの時。
誰も周りにはいないのに、それでも声も出さずに泣いていた克己に、まだ小学生だった尚樹は、いかに自分が非力かと思い知らされた。
当時既に祖父からの政治的教育も受けて、自分は普通の小学生ではないと自負していたにも関わらず、最も近くにいる人の何の手助けも出来ない自分が情けなかった。
思えば、あのときから克己を守りたいと願っていた。
だからこそ強くなろうと決心した。身体も鍛えたし、権力も手に入れた。これからだってそれはかわらない。
でも、どんなに力をつけても、克己にとって自分は従兄弟にすぎない。
10年の年の差は決して縮まらない。
そして五十嵐家の人間に、自分が亜紀子の身代わりであるという呪縛から、克己を解き放ってやることは恐らく出来ない ―― 。
それならば、自分がすべきことは何か ―― ?
今の尚樹にはまだ、その答えは見つかっていなかった。






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初出:2003.04.15.
改訂:2014.09.28.

Silverry moon light