Tears 10


一瞬のことで、祐介には何がなんだか判っていなかった。
壁のような三年生の間を潜り抜けて、一瞬の隙をついてボールを奪い、ダッシュで中盤まで持ち込んだ。
あとはトップを走る郁巳にタイミングを合わせてパスを ――
しかし、その瞬間、
「えっ?」
突然目の前に現れたもう一つの壁。
横から、まるでラグビーのタックルのように飛び込んできた、自分よりはるかに上背のある黒い影 ―― 。
はっきり言って、祐介は華奢な体型である。
中学時代は野球で鍛えてはいたが、それでも確かに筋肉隆々というわけではなかったし、一番少年が青年に成長を遂げる時期に肩のケガであらゆる運動から一線を引いたため、焼けていた肌も、生まれたときのような白さに戻ってしまった。
身長だって、毎日欠かさず牛乳を飲んでいるのに、今ではクラスでも前から数えたほうが早い。
そんな祐介に対し、三年生のその影は本当に壁としか言いようがなく ―― 。
弾き飛ばされるような衝撃と右肩に走る激痛。
目の前に星が浮かんで、暗黒に落ちていくような感覚。
「祐介!」
ぼんやりと見えるのは、足ばっかり。
そもそも、地面が横に見える。
そして、
「俺が病院に連れて行く。郁巳、あとで荷物をもってこい」
ふわりと身体が宙に浮く感じがしたのを最後に、祐介は痛みで意識を飛ばしていた。



尚樹が正門前に向かうと、タイミングよく空のタクシーがやってきた。
幾らなんでもこんなに都合がよくタクシーが通るかと思ったら、案の定、制服姿の和行が生徒会役員室の窓から携帯を片手に手を振っていた。
それをチラリと見て、すぐさまタクシーに乗り込む。
「五十嵐総合病院まで、お願いします」
それだけ言うと、腕の中の祐介を見つめる。
(なんで俺は、こんなことをしてるんだ?)
ふと我に返って、尚樹は驚いた。いつもなら、その辺の生徒に指示を出して保健室に運ばせれば済むことである。
そのあと保健医の判断で病院に行くことにはなるかもしれないが、それは後のこと。
それなのに、気が付いたときには抱き上げていた。まるで、誰にも触らせたくないかのように。
ぶつけられたのは右の肩 ―― 野球で痛めたと言っていた ―― で、若干熱を持っているようだった。
細身の身体が時折震え脂汗が浮かんでいる白い額。
そっと前髪を掻き揚げると、きつく閉じた瞳がゆっくりと開いた。
「あ…せん…ぱい?」
至近距離にある尚樹の顔に気が付いて、祐介は身体を起こそうとする。
しかし、
「痛っ…」
「動くな。じっとしてろ」
まるで引きちぎられそうな痛みに、祐介の端正な顔が歪む。
痛む右肩を押さえるように自分で自分の抱きしめる姿が、あの時の克己の姿に重なって見えた。
亜紀子の葬儀の日。
満開の桜の下で、膝を抱えて一人、声を殺して泣いていたあの時の ―― 。
( ―― そういえば、あの頃の克己兄さんと同じ年か…?)
亜紀子が死んだのは、克己が高等部の入学式直前だった。ちょうど、今の祐介と同じくらい。
あの時の尚樹はまだ小学生で、小学生の目から見ても華奢な克己だったが、それでも自分よりは大きかった。
でも今は ―― ?
「あ、あの…五十嵐先輩?」
「ああ、すまない」
少し落ち着いたらしい祐介が、そっと腕から離れようとする。それに気が付いて、尚樹も抱きしめていた腕を解いた。
何となく気まずい空気のタクシーが、やがて病院の前に停車した。



病院には既に連絡が入っており、すぐさまレントゲンをとられ、割と待つこともなく診察が始まった。
(この人が、生徒会長の好きな人…)
祐介が名前を呼ばれて入った診察室にいたのは、優しい笑顔の良く似合う白衣の医師。ネームプレートに『本条』とあった。
「骨にヒビが入ってるな。元々、筋も良くないみたいだね。しばらく不自由かもしれないけど、固定するよ。薬のほうは…鎮痛剤と、発熱があるかもしれないから解熱剤をだすけど、鎮痛剤の注射もしておく?」
「え? あ…いいです。かなり落ち着きましたから」
祐介から見ても綺麗だと思う。男の人に綺麗というのは変だとも思ったが、それしか表現方法がないのも事実だ。
女優の母をもつ祐介にはその関係で芸能界にも直接見知った人は大勢いるのだが、そんな人たちよりもはるかに綺麗な克己に、ショックを受けていた。
相手が男だとか、年上だとか、そんなことは関係ない。
こんなに綺麗な人が近くにいたら、それこそ周りの人間なんて目に入らない ―― 当然のごとく、自分なんかは ―― 。
(自分の気持ちと向き合った途端がこれだもの。適わないよな…)
看護婦に指示してギプスで固定している間、祐介はますます落ち込んでいった。
せめて克己に対して敵対心とか憎悪とか思えれば少しは楽なのに、それすら思いつかない。
そういう対象ではないのだ、克己と言う人は。
(だから、生徒会長が好きになるんだろうな)
漠然とそんなことを思って、ますます落ち込んでしまう。女々しい自分が情けない。
そんな祐介を、痛みに我慢していると思ったのか、克己は優しく声をかけた。
「君の肩、クセになってるでしょう? その肩とは長い付き合いになるんだからね、無理しちゃダメだよ」
「判ってます」
とっさに返事をした口調は、若干トゲになっている。そんなつもりはなかっただけに、祐介もビックリして
「あ、すみません。診ていただいてるのに…」
「いいよ、気にしないで。具合が悪いときはイライラもするよ。でもね、」
クスッと微笑んで、看護婦の目を盗んで祐介の耳元に囁いた。
「あんなに心配そうな尚樹の顔、始めてみたよ。よっぽど君が気になるんだね」
「え? そんなこと…」
瞬間的に真っ赤になって祐介に、克己は優しそうに微笑んでいた。






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初出:2003.04.19.
改訂:2014.09.28.

Silverry moon light