Substitution 02


尚樹と祐介がお互いを認識するに至ったのは、元はと言えば、逆恨みとしかいえない理由でとある3年生から祐介が反感を買ってしまったことが始まりだった。
大きな瞳に涙を一杯に浮かべて。肩を震わせて、膝に置いた手を握り締めて。
でも、決して泣き声は上げず、ギュッと唇を噛み締めているその姿が、尚樹の記憶の中にある姿に重なっていた。
実の母を亡くして、満開の桜の木の下で、たった一人、声も立てずに泣いていた克己の姿と ―― 。
その余りにも良く似た仕草にやりきれなくて、泣かせたくないと強く思うようになっていた。
克己のときはまだ自分は幼くて、とても力にはなれなかった。でも今なら違う。祐介なら守ってやることはできるはず ―― と。
それは、単なる対価行為と思っていた ―― 最初は。
だが、祐介が逆恨みされて怪我をさせられたと知ったとき、何かがはじけたことを尚樹は感じていた。
克己の代わりではなく、この少年を守りたいと。守らなくてはいけない ―― と。
だからそのためにあらゆる伝と策を張り巡らせて、祐介に危害を加えようとするものを追い落とした。そのために自分が傷を負うことさえ厭わずに。
自分が傷を負うことには何の躊躇いはない。
だが、祐介の身に何かあったら ―― それは生まれて始めて感じると言っても良いほどの恐怖で、その時、それほどまでに祐介が大事だと気がついた。
そう、あれほど大事だと思っていた克己のことを、忘れてしまうほどに ―― 。
一方、祐介も克己とは面識があった。
夏休み前の球技大会で怪我をしたとき ―― 実はそれが逆恨みからなる陰謀だったのだが ―― その時治療をしてくれたのが克己だったのである。
克己のことは、桜ヶ丘学園に一度でも在校したものなら知らないものはいないとさえ言われているほどで。
当然、祐介も噂では名前を聞いたことは一度や二度ではなかった。
尤も、噂だから、幾分誇張もあるだろうと高を括っていたのも事実であるが、それが誇張しすぎと言うことでないと思い知らされたのはその時である。
ただ綺麗としか表現できない ―― それは外見だけではなく、その心もそうだった。
いつしか尚樹にほのかな想いを持ち始めていた祐介にとって、克己の存在は心が引きちぎられるほどに痛かった。
尚樹が見ているのは克己だけ ―― それは当然のようなものだったから。
それで克己を憎むことができればまだマシだった。
勿論そんなことは自分が惨めになるとは判っていたが、せめて憎む対象であればまだやりきれない思いをぶつけることだってできただろう。
しかし ―― そんな対象ではなったのだ。本条克己という人は。
『いいよ、気にしないで。具合が悪いときはイライラもするよね』
つい邪険にトゲのある言い方で応えても、顔色一つ変えないで笑ってくれて。絶対に勝てないと思ったのは事実。
だから ―― 尚樹が克己ではなく、自分を選んでくれたことは驚き以外の何物でもなかった。
そして今は ―― いつ捨てられるのかという不安が絶えず心に巣食っていたのだった。



「ああ、ごめんなさいね。肝心な話をしなくちゃ、だめね」
一瞬、暗い翳りを見せた祐介に、気がつかない繭美ではなく、そう話を振るとニッコリと尚樹に微笑んだ。
「実はね、尚樹さんにご相談がありますの。勿論、祐ちゃんのことなんですけどね」
「…どういうことでしょうか?」
居住まいを改めて云われると、流石に尚樹も気を張り詰めずにはいられない。
自然と凛とした態度になるが、その威風堂々としたところは高校生とは思えない風格さえある。
女優と言う職業柄、繭美には人を見る目は自信があったが、それでもこの堂に入った落ち着きは感嘆せざるを得ない。
これだけの人物なら、可愛い我が子を任せても大丈夫 ―― という確信さえ抱いてしまうほどに。
だから、
「実は、祐ちゃんはご存知の通り、昨年1年間イギリスに留学してましたでしょう? だから日本の学力とちょっとギャップがありますの。特に桜ヶ丘学園は超一流の進学校でもあるし…」
帰国子女など珍しくもない桜ヶ丘であるが、だからと言って特別扱いもしてはくれない。しかも授業レベルは常に最高であるため、初等部から在学しているものでも私的に家庭教師を置くことは当然であるほど。
寧ろ尚樹のように家庭教師どころか塾にも通わないと言う方が珍しい方である。
「大丈夫だよ。今のところは何とかついて行ってるし」
一応学生である以上、学習面の指摘は痛いところである。だから、慌てて弁解する祐介であったが、
「でも、この前も問題の意味が判らないって言ってたじゃない。祐ちゃんもおりこうさんだから馴れれば大丈夫でしょうけど、二学期になったらもっと授業は進んじゃうでしょう?」
と言われては、返す言葉がない。
祐介自身は決して知能が劣ると言うことではなくて、日本独特の言い回しにてこずっているのが事実である。
そのため数学のような決まりきった答えを出すものは何の苦労もないのだが、なまじ1年間英語のみで生活していたため、日本語の文章問題は若干辛いところがあるのも事実だった。
「それでね、尚樹さんなら学校のことには詳しそうだから、もしいい家庭教師さんがいたら紹介して頂けないかと思っていますの」
そうニッコリと微笑まれて ―― 尚樹は、ニヤリと内心で納得していた。
つまりは ―― そういうことである。
「それなら、僕が責任をもって祐介君の面倒を見させて頂きましょう。僕にとっても1年からの復習を兼ねるといういい機会ですから」
「まぁ、本当? 嬉しいわ。尚樹さんなら安心してお任せできますものね♪」
まるで女子高生のように喜ぶ母を見て、祐介は漸く自分がはめられたと言うことに気がついた。






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初出:2004.09.13.
改訂:2014.09.28.