Substitution 05


玄関を開けると、そこでは涙声で叫ぶ少女の姿があった。
「克己兄さんはあの男に騙されてるのよっ!」
気の強そうな瞳に涙を一杯に浮かべて。
だがそれは、哀しいというよりは思い通りにならないことに対する苛立ちのようで、その口惜しさを吐き出しているといった感じだった。
「あんなヤツなんか、克己兄さんには相応しくなんかないもの。絶対に絶対に認めたりしないんだからっ!」
「…利恵」
そう叫んで二階へ駆け上がる利恵を、克己は困ったような顔で見送って ―― 尚樹と祐介に気がついた。
「あ…ごめんね。見苦しいところ見せちゃって」
そう言って苦笑する克己に、尚樹だけでなく祐介も一瞬ドキリと息を飲んだ。
以前から克己の美貌には驚かされてはいたが、久しぶりに会ったその姿ははっきりいって尋常ではなかった。
前よりは若干痩せて、華奢になった気がするのは否めない。
だがその煙るような微笑は前にもまして壮絶に綺麗で、それ以上に匂い立つような色香さえ忍ばせていた。
まるで、虫を誘う芳香を放つ華のようで。
そのくせ透明な色に近い雰囲気は天使の様な神々しささえあって。
男も女も関係なく、見惚れてしまうのは当然と言う感じで ―― 。
「あ、そういえば尚樹、今日が抜糸だったんだってね。おめでとう」
ニコっと微笑んで云われると、それはまるで天使の祝福のようで。
尚樹は一瞬返す言葉を躊躇った。
「あ…うん、ありがとう。克己兄さん、帰ってたんだ」
「うん、ごめんね、心配かけて。でも…もう大丈夫だから」
その意図するところは尚樹には判っていたが、あえてそれには触れず、
「ああ、それは気にしないで。ところで、利恵は?」
尤も、利恵が何を泣き喚いているかは ―― 実は判りすぎるくらいに判っていたのだが。
「うん…その…ちょっと突然だったから、びっくりしたみたい」
そう恥かしそうに呟くのを見れば、どういうことかは嫌でも判る。
何せ利恵の野望は、『克己と結婚して五十嵐病院の院長夫人なる』である。
だから今まで、克己に近づくものはそれこそ男女を問わず排除してきたのだが、肝心の克己が誰かを選んでしまったのなら ―― それを覆すことはかなり難しい。
「今、一緒に暮らしてるんでしょう? これからも…?」
そう云えば ―― 流石に克己も頬を赤らめて、照れたように俯いた。
「今日はその報告と職場復帰の打ち合わせにね」
「そう、良かった。仕事は続けるんだ」
「うん。龍也が許してくれたから」
そう言って極上の微笑を浮かべる様は例えようもなく綺麗で。
尚樹の後ろで見ている祐介でさえ、言葉もなく見惚れてしまうほどである。
『龍也』という、克己が漏らした名前に覚えはないが、それが克己の大事な人の名前だと言うことは想像に容易くて ―― 。
その祐介に気がついた克己は、ちょっと驚いたように目を見張りながら、どこか納得したように微笑んだ。
正直に言って、克己が一番悩んでいたのは、尚樹と利恵に何と言うかということだった。
二人ともとても自分を慕ってくれているということは判っていたし ―― それがただの従兄に対する親愛の情だけではないということも判っていた。
勿論、それに応えてやることは、いくら克己でもできない。
まだ利恵ならいいかもしれない。
幼い利恵なら、「憧れ」と「恋愛」の違いが判らないから、いずれ気が付く時が来ると楽観できるかもしれないから。
だが、尚樹は確実に克己を一人の人間として見ているということに気がつかない克己ではなかった。
ただ ―― ずっと気がつかない振りをしてきたのは事実だが。
だから尚樹が祐介を連れていると言うことが、克己には多少の驚きがあった反面、純粋に良かったと思わざるを得なかった。
「唐沢君も変わりはない? 肩の調子は大丈夫?」
そう祐介を心配してくれる克己の様子には、前と変わったところは一切なかった。
だから祐介も、
「あ、はい。大丈夫です」
「また痛むようだったら早めに診てもらってね。僕は10月から戻ることになるけど」
「ありがとうございます」
聞きたい事は山のようにあったが、それが聞いても良いことかいけないことかの判断はまだできる。
だからあえてそれ以上は聞かずにいると、ふと、克己の表情がパッと満面の笑顔に変わった。
「あ、龍也? 迎えに来てくれたの?」
咄嗟に後ろを振り向けば、そこには黒いスーツを見事に着こなした男が立っていて、その精悍さに祐介はゾクリと寒気さえ感じていた。
冷たく見据える視線に全身から溢れるような威圧感と王者の風格。
研ぎ澄まされたオーラは普通の人間とは一線を画していることは間違いなく、只者でないことは一目瞭然である。
だがそれも、克己を見るときだけは全く別物に変わっていて ―― 。
「まさか帰して貰えないとかになっては、洒落にもならんからな」
「やだな。そんなことあるわけないじゃない。もう、龍也ってば心配性だね」
コロコロと微笑む克己の姿は可憐そのもの。
そしてそれ以上に幸せそうで ―― 祐介は克己より、尚樹の表情が気になっていた。
流石に背後に隠れるようにいたから、その表情は見ることは出来なかったけれど。
もし見えていたら ―― きっとその後、悩むことはなかっただろう。
それほど穏やかで、安心した笑顔だったから。






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初出:2004.09.27.
改訂:2014.09.28.