邂逅 04


個人的には興味に尽きない書庫ではあるが、己の欲するものとはやや異なる。使える手は打ってここまで入り込めるようになったとは言うものの、肝心のものがないのなら用のない場所でもある。
焦る気はないが ―― 手に入らないもどかしさを、そのままでいられるほどの寛容さも持ち合わせてはいない。
他国とは異なり、エジプトは文字の発達した国でもある。元来、石版に刻まれるヒエログリフ(聖刻文字)から始まり、パピルスにペンで書くための草書体ともいえるヒエラティック(神官文字)。そして更にそれを簡素化したデモティック(民衆文字)と、その使うものによって文字は発達し、生まれながら肉体労働をするためだけに生きる奴隷でもなければ、一般の民でもデモティックを読むことは可能である。
逆に、一般の者ではヒエラティックやヒエログリフを読むことは困難となる。特に神殿や王宮図書館に秘蔵される書物のような難解のものともなれば、余程高位の神官クラスでなければ学ぶことすら困難と言われていた。
この時代、知識持つ限られた貴族や神官が、知らない多数の民衆を制する武器となりえていたから。
そして当然のように、その知識の多くは門外不出であった。
更に10年前のヒクソスの侵攻で下エジプトの神殿や図書館はかなりのダメージを受け、未だ復興は完全と言い切れていない。多くの優秀な神官もその暴力の前ではなす術もなく、下エジプトは慢性的な人不足ともいえた。
おかげで、何の後ろ盾ももたない少年に過ぎないセトが、この神殿に入り込むまでできたのも事実であるが、一方で全て自分の力で手にいれなくてはならないというのも事実。
尤も、セトやバクラが欲している『知識』は、普通の人間ならば、その存在すら知らないはずのものであったのだが ―― 。
そう、あるとすれば、あとは ――
「…やはり、テーベの王宮図書館だな」
そう呟くセトを見ながら、バクラは忌々しく呟いた。
「花の都、王都テーベか…」
ヒクソスの暴虐の前にも屈しなかった王都テーベ。その地は神の化身とも言われるファラオが暮らし、この大エジプトを君臨する地でもある。
現在のファラオは10年前にヒクソスを打ち破った英雄アクナムカノン王。但し最近は病に臥せることが多く、政務は主に六神官の長であり王弟でもあるアクナディンが携わっているとも聞く。
バクラにとっては、仇敵ともいえる ―― 王権の象徴。
(フン…何が英雄だ。アクナムカノンもアクナディンも、いずれはこのオレ様が…)
ガリっと唇を噛み締めると、じわりと鉄の味が口中に広がった。そして、右の頬に走る傷跡がくっきりと浮かび上がる。
王権に対する憎悪は、常にバクラの身の内に潜んでいる。だからこそ焦りは禁物と、その地に向うことは控えていたのだが ――
(チッ…しょうがねぇな)
忌々しいが背に腹は換えられない。この美しい獲物を利用するのはやや心苦しいが ――
「仕方ねぇな。何とか手を打つか」
そう呟くと、まるで闇に溶け込むようにバクラは姿を消していった。



その数日後 ――
神官長自らが呼んでいるといわれて、セトは怪訝に思いつつも執務室へと向った。
「お呼びと聞きました、ヘイシーン様」
態度だけは恭しく、しかし内心では一歩でも近づきたくないと思いつつも中へ入ると、そこには滑稽なまでに派手な法衣に身を包んだ神官が待っていた。
このアブシール神殿の神官長ヘイシーン。
奇妙に顔色の悪い、痩身の影のような男であるが、それでも神官長というだけあって、その権勢は絶大である。
おかげで正規の神官でさえも立ち入りが禁じられている書物庫への出入りも、この神官長の一言でセトには出入りが無条件で許されている。
尤も、その見返りというべきか、他の神官たちがセトを見る目は邪推に満ちていて、
曰く、色香で神官長を誑かしている ―― などと。
それもこれも、セト自身が類稀な美貌ゆえのことではあるが、
(フン、馬鹿馬鹿しい。無能な人間どもの考えそうなことだ)
本来であれば、何年もの修行の上にやっと授かれるかどうかという叡智の全てを、たかが15歳の少年が読破してしまったということを納得できない凡庸たちの戯言である。あまりに馬鹿馬鹿しいから、セト自身も一々構う気にもなれず、放置しているというのも事実ではあった。
実際、神に仕える以上神官には妻帯は許されない。そのために見習いとして預けられる少年を性欲の吐けとする者が絶えないのは、公然の秘密のようなものである。
そのようなことを考えれば、セトほどの美貌であれば狙われるのは当然とも思えたが、逆にこの神官長の贔屓が足枷となり、手を出そうとするものがいないというのは不幸中の幸いとでも言うところであった。
それどころか ―― 神官長であるこの男は、何故かセトをそう言った毒牙から守ろうとしている節さえあった。事実、セトに手を出そうとした神官兵が、密かに神殿を追われ砂漠に放逐されたという話しも存在する。
何故そこまでするのか、それには流石にセトも気がついてはいなかったが。
そして、
「おお、セトか。待ちかねたぞ。実はな、そなたによき話が参ってな」
形だけは礼節を取って跪くセトに、ヘイシーンは手を取って立ち上がらせると、一通の書状を見せた。
「王宮で王子の学友となるべく者を探しておるそうでな、その白羽の矢がそなたに参ったそうじゃ。我が神殿からこのような名誉ある者を出せるとは誉れ高きこと。必ずやこの任を受けるのじゃぞ」
突然のことで一瞬、何がなんだかわからずといったセトであったが、その意味するところに気がつくと、内心でほくそ笑んで奏上した。
「それは…身に余る光栄。ヘイシーン様のご加護の賜物でございます。くれぐれもご期待に添えますよう勤めますれば…」





そうして ―― 運命はゆっくりと周りつつあることを、まだ誰も気がついてはいなかった。






邂逅 03 /  邂逅 05


初出:2004.03.10.
改訂:2014.08.16.