邂逅 09


やっと子猫を捕まえたと思ったと同時に足を滑らせて、咄嗟に思ったのは子猫を守らなくてはと言うことだけで。
しかし、マハードが気が付いたとき、身体は静かに地面に下ろされるところだった。
「大丈夫か?」
何事かと思って見上げれば、見知らぬ少年がクスクスと笑いながら見下ろしている。
「は、はい、大丈夫ですっ」
「どれ…ああこのネコか。随分と汚れているな。洗ってやった方がよさそうだ」
どう見ても自分より年下 ―― だが、その堂々とした態度といい、身に纏う衣装や装飾の高級さにかなりの家柄を感じさせるが、マハードにそこまで推測する余裕はない。
「傷の手当は洗ってからが良いな。アイシス、湯の用意を」
「御意」
いつの間にか背後に控えていたアイシスにそう命じると、あっという間に桶に入れられた湯が運ばれてくる。そして、
「どうした? 洗ってやらないのか?」
「え、あ、はいっ!」
慌ててマハードが子猫を湯に浸けると、突然のことに子猫が大暴れして辺りを水浸しにする。
当然、すぐ側で見ていたユギも頭から湯を被ってしまい ――
「こら、大人しくしろ、綺麗にしてやるだけだぜ」
「うわっ、ちょっとツメを立てないでって! 痛いって…」
どっちが洗われているのか判らないような大騒ぎで、少年二人が1匹のネコと格闘する様は ―― 傍目から見ているアイシスにとっても新鮮であった。
(あらあら、王子ったら…あんなに楽しそうに♪)
大人に囲まれた王宮では、こんなに楽しそうな姿を見せることは初めてで。歳相応のはしゃぎぶりはほほえましい限りである。
やがて綺麗に洗われた子猫は、流石に力尽きたのかぐったりとマハードに身を預け、大人しく手当も許していた。
「ほう、珍しいな。白い毛並みに青の目か」
汚れているときには気が付かなかったが、綺麗に洗ってみれば中々の美猫である。ユギが呟いたように白い毛並みに青の瞳で、今は疲れたように大人しくしているが、無闇に触ろうとすると顔を上げてキッと睨みつけてくる様は、子猫ながらに気が強く野性そのものである。
実際、マハードの腕の中では大人しくその身を預けているくせに、ユギが抱き上げようとすると怪我をしていない方の前脚で払いのけようとするくらいで ――
「クスっ…なんか、セトそっくりですね、この猫」
とマハードが呟いた。
「セト? セト神のことか?」
セト神といえば、エジプト神話における最大の邪神である。砂漠と暴風を支配し、己の野望のためには兄弟神であるオシリスさえ殺したという破壊神。
だが ――
「違いますよ。私の言っているセトはれっきとした人間です。ただ…」
きっぱりと言って ―― その先を言いよどむ。
それをユギは見逃さず、
「ただ?」
と聞き返すと、マハードは暫く考えてから応えた。
「それは綺麗な人ですよ。それこそ伝説の『蒼き瞳の白き龍』が生まれ変わったように、ね」



いつもの通り図書館に篭って膨大な書類に目を通していたセトの耳に、中庭の騒々しさが風に運ばれてきた。
「あれは…マハードか?」
何気なく見下ろせば、精霊を呼び出したマハードが馬鹿な子弟たちをやり込めている。
セト自身、その連中に対してよい印象はなかった ―― 尤も、セトが好印象を持つような者など存在しないに近い ―― ので、そのことにはなんとも思わないが、
「やっぱり侮れねぇな、あのガキも」
代弁するように呟いたのは、いつのまにか潜んでいたバクラである。
「流石は選び抜かれた一員だけはあるってぇヤツか? あの年で精霊を操るったぁな」
「普段は天然ボケの鈍くさいヤツではあるがな」
実際にマハードが聞いたら涙を浮かべるような酷い言われ様ではあるが、これでもセトにしてみれば一応誉め言葉のつもりである。
尤も、未だ精霊を操る事が出来ないのはセトもバクラも同様であって。
特にセトは ―― 己に宿る精霊の存在を知っているのにだせないという歯がゆさが腹立だしい。
(フン…)
丹精な顔が悔しげに翳ると、蒼い瞳が更に色を濃くする。その深い蒼は砂漠の民が焦がれる色で、見慣れているはずのバクラでさえも一瞬目を奪われずにはいられない。
もしセトが女だったら ―― 今ごろはありとあらゆる権力者がその身を手に入れようと、血で血を洗う戦を起こしては破滅していった事だろうと思うから。
いや、それは男の身体であっても同じ事で ――
但しその身が穢れれば ―― セトの望みの一つが永遠に失われる可能性があると言うことも事実である。
唯一、神と対抗できる伝説の竜。
限りない光を従える、清浄な存在だから ―― 。
と、そのとき、
―― ギィー
セト達のいる部屋のドアが開けられ、わずかな人の気配が入ってきた。
同時にバクラは煙のように姿を消し、そこに残ったのはセトのみ。
この部屋に来るものといえば、バクラを除けば食事のたびにお節介に呼びに来るマハードくらいであるのだが、そのマハードは今中庭で騒いでいるのは確認したばかりである。
「…誰だ?」
ほんのわずかの気配しか現さないというのも気にかかり、セトが問い詰めると ――
「やはりそなたか。流石じゃの…」
そう呟いて姿を現したのは、六神官の一人であるアクナディンであった。






邂逅 08 /  邂逅 10


初出:2004.05.12.
改訂:2014.08.16.