自覚 07


ユギと別れて神殿に戻ったセトは、そのまま地下にある禊の間に向かった。
やや潔癖気味な傾向のあるセトは、禊や沐浴は好むところではある。しかも、今日は城下にも出向いたりしたため、いくらフードを被っていたとはいえ全身埃っぽい気がするのは否めなかった。
それに、
(頭を冷やすには、都合がいいな)
その理由は判らずとも、自分が苛立っているということには自覚がある。それを他人から指摘されることは好まなかったし、そう悟られるのも癪だった。
だから、
「禊に篭る。王宮からの呼び出し以外は邪魔をするな」
そう下級神官に告げると、セトは神殿の地下へ篭ってしまった。



シモンの元を飛び出したユギが向かった頃には、既にセトは神殿の地下に篭ってしまった後だった。
「そうか、じゃあ仕方がないな」
そんな風に言うものだから諦めてくれたのかと思ったのが間違いで、ユギは全く気にせず地下へと向かおうとした。
慌てたのは、この神殿に仕える下級神官達である。
「お待ちくださいませ、王子っ!」
今はまだ王子の身分とはいえ、ユギはいずれファラオとしてこのエジプトに君臨する者である。
だが、神殿内においては神官の命が優先される。ましてや、相手はあのセトだ。
「セト様から王宮の呼び出し以外は邪魔をするなと言われておりますっ!」
仮にも相手は次のファラオを約束された王子。
しかし、神殿に仕える下級神官達は必死でそれを止めに入っていた。
そのため、王子相手に邪魔などと不敬と取られても言い訳のできないようなことまで言っているが、それも仕方がないだろう。
セトは単なる神官ではなく、この年で国政に携わる六神官の一人にまで上り詰めた逸材である。その威光はファラオに次ぐものであり、やや強引とは言われながらもその手腕の優秀さは内外において衆目されているところだ。
そのセトの意に反したとなれば、神官としての将来に暗雲が立ち込めるのは必定。
否、それでなくても、あの美貌、あの蒼い瞳で無能と見下されれば、一神官ごとき容易く失意のどん底に叩き落とせるというものだ。
しかし、
「俺がセトの邪魔をするのはいつものことだろう? 心配はいらないぜ」
「ですが、お取次ぎなどすれば、私共の…」
「だから、取次ぎはいらないって言ってるだろ? 俺が直接行くからな」
そう言って下級神官達が止めるのも構わず、地下へ向かってしまった。
こうなれば、もはや下級神官達の手に負えるところではない。
しかも、
「お、王子〜」
一応付いてきたマハードも、このままではただで済まない事は判っている。そのため、かなり情けない声で王子を止めようとするが、
「マハードもここに残ってろ。セトに封印されたくないだろ?」
「それはそうですが…大丈夫ですか?」
「まぁ何とかなるだろ」
そう言って左手をひらひらと振ると、そのまま地下へ下りて行った。
右手に、先ほど城下で買い求めたあの箱を持って ―― 。



熱砂の国と呼ばれるエジプトであるが、ユギが向かった神殿の地下は信じられないほどに涼しかった。
むしろ、寒いと言っても良いくらいだ。
しかもここに湛えられている水はナイルの支流が地下に一度潜ったものを湧きださせて引いたものであるため、地上の熱と不浄なものが濾過された状態となり、身を切る冷たさと静謐を兼ね備えていた。
それこそ、ユギには手ですくうだけでも躊躇う冷たさなほどだ。
(全く、こんな中で沐浴だって? 綺麗好きにも限度があるだろ)
厳密にいえば沐浴と禊ではその意味するところは全く異なるのだが、ユギからみればどちらも水浴びとしか思えない。
大体、ここが神殿で神に仕える場所ということは知っていても、そもそもその神の存在でさえ信じているとは言い難かった。
(大体、セトだって本当に神を信じてるか…怪しいよな)
望むものがあれば努力を怠らず、できうる限りの手段は尽くす。
寧ろそのためにいつも無理をしているようなものであり、ただ祈りを捧げて縋るなど、その人となりを思えば絶対にありえないことだった
(…それなのに、なんで神官なんだ?)
最も、よく通る声にあの美貌だ。神官としての儀式などを執り行う姿には、他の神官たちでは太刀打ちできないほどの存在感は持っている。
それどころか、今ではセト以上に神官としてのカリスマ性を持つものはいないとさえ言われており、まさに神の代行者といわれるに相応しいものでもある。
見栄えだけの良いお飾りとは違う。
まさに、この世に具現した神の姿の生き写しといっても良いほどで。
―― ピチャ…ッ…
そんなことを思い浮かべながら地下に降り立つユギの耳に、僅かな水音が届いた。
四方の篝火に照らされて揺らめく水面の向こうに、セトの白い身体が佇んでいる。
その余りにも高貴な姿に、流石にユギも声をかけ損ねていた。
決してセトの生まれは華々しいものとは聞いてはいない。それどころか、孤児でかなり苦労をしたらしいという噂をちらりと聞いたこともある。
だが、こんなときのセトほど、気高く神々しく ―― 人知を超えた存在をユギは知らなかった。
(…セ…ト)
聖水に濡れた服や髪が白い肌に張り付いている。
やや青ざめた唇がほんの少しだけ開き、低く、祈りの詞を詠っていた。
そして、胸の辺りまで水に浸かったセトが、側にあった先年ロッドを胸に抱いて祈りを捧げると、まるでその祈りに呼ばれたかのように、何かがぼんやりとセトの姿を包み込んだ。
(え? 何…だ?)
まるで薄い布が一枚舞い降りてきたかのような白い霧のようなものがセトの周りにたちこめていく。
それはゆっくりとセトの周りを流れながら、何かの姿になろうとしていた。
否、霧ではないことは確かである。なぜならば、それは聖水の中にまで浸り、しっかりとセトの姿を覆っていたのだ。
まるで、御子を包む産着のように。セトの姿を、その身を挺してあらゆる邪悪から包み隠すような長大な姿で ―― 、
(蛇? いや、あれは…)
それはまさしく、幼いころ、御伽噺で聞いた東の国の竜の姿。
神の化身で、この世の至宝を守る聖なる存在と教えられた記憶がある。
だがユギには、その得体の知れないものにセトを獲られてしまうかのような錯覚さえ覚えた。
だから、
「セトっ!」
「…ユ…王子?」
慌てたユギがその名を呼んだ瞬間、その白い霧は霧散した。
ただ、消える瞬間に、
―― グゥ…キュルルル…!
激しく威嚇するような咆哮を、ユギだけに轟かせていた。






自覚 06 /  自覚 08


初出:2008.05.30.