自覚 08


突然の静寂を破られて、驚いたのはセトの方だった。
しかし、
「もういいだろ。上がって来いよ」
何故か焦っているかのようなユギの様子に、セトの方は不審に思いながらも聞く気はないらしかった。
「ここには誰も入れるなと言っておいたはずだぞ」
「ああ、俺が無理矢理入った。ここの神官たちは悪くないぜ」
「止められぬのであれば、命じた意味がないわ」
とはいえ、相手は仮にも世継ぎの王子。一介の神官では止められなかったのも無理はなかろうとは思っている。
だがそれをそのまま言うのも業腹で、セトはわざと水の中で背を向けた。
「俺は禊の最中だ。神殿でのことを、貴様が口出しするな」
そう言って更に奥の深みへと向かえば、ユギは
「フン…そう来るかよ」
と言うなり、水の中に飛び込んだ。
「ユギっ!?」
ユギの宮殿にある沐浴場とは異なり、この禊の水は清浄でありながらも身を切る冷たさである。
一種の修行にも近いため、馴れぬものにはほんの数分でも凍えるもののはずだった。
しかし、
「いいな、お前に名前で呼ばれるのは」
そんな冷たさなど感じていないかのようにユギはセトのすぐ側までジャブジャブと水音をたててやってくると、その手に小さな箱を乗せた。
「さっき渡し損ねたからな。お前に」
それは、セトも見覚えのあるもので。
城下まで迎えに行ったときから、ずっとユギが大事そうに抱えていた箱であった。
「なに…?」
そうは言われても、もう一方 ―― 左手には先年ロッドがあるため、片手で開けるのは不可能だから。仕方がなくセトは岸辺まで戻りロッドを置くと、丁寧に箱を開けてみた。
中に入っていたのは ―― 竜をかたどった銀の置物だ。
「これは…」
「結構、いい造りだろう? 特別に造らせたんだ。お前、本当にドラゴン好きだからな」
その気になれば、等身大の竜でさえ黄金で作ることも可能なはずのエジプト王子である。だがあえて財貨に物を言わせるでもなく、それでいて手の込んだつくりであるその像はいたくセトも気に入ったようだった。
「全く、貴様というヤツは…」
六神官ともなれば、見も知らぬ地方豪族や他国の高官からの賄賂紛いの品が贈られてくることも少なくない。
無論、職務に関しては更に潔癖なセトであるから当然そのような品はどんなに高価なものであっても一顧だにせず、送り返すか不正の証拠として告発材料にするところである。こんな風に手に取ることなど、ありえない。
ましてや、仮にも世継ぎの王子がわざわざ自分のために城下で作らせたというのだから、嬉しくないはずはなかった。
「気に入ったか?」
「…悪くはないな」
それでも、素直に嬉しいというには気恥ずかしくて。
「だが、今回限りだ。無闇に城下へ行くのは控えろ。立場というものがあるからな」
普段のセトからは考えられないような抑えた言い方で促せば、ユギは嬉しそうに頬を緩めていた。
さりげなく視線を合わせないようにしているが、セトの横顔がいつもとは比べ物にならないほどに穏やかなもので。どこか気恥ずかしそうに感じるのも ―― 気のせいとは思えなかった。
しかも、
「さっさと上がれ。王子に風邪を引かれたなどとあっては、俺がシモン殿に小言を喰らう」
そう言って ―― つい先ほどにはまだ上がる気などないと言っていたセト本人が先に上がれば、当然の如くユギにも否はなかった。
しかし、
「ああ、いいな。それ。それを理由に、明日の謁見は二人でサボろうぜ」
いつもと違って穏やかで、素直なセトに気を良くし過ぎて。ついそんなことを口走ったのが間違いだった。
「馬鹿者。そのようなこと、できるわけがなかろう」
先に上がって手を差し伸べたセトだったが、流石にそれは聞き流すわけにもいかなかったようだ。
「明日の件は、シモン殿から聞いたのであろう?」
「ああ? ヌビアの姫のことか。まぁ気にすることじゃないだろう?」
そうあっさりと ―― それこそ、先ほどまでの苛立ちの原因だったというのに、あまりにあっさりと言われたものだから、却ってセトの方がムキになっていた。
「気にするなで、済むことでもなかろう」
「会ったこともない女を嫁にしろっていうのか? そっちの方が問題だろ」
「いずれはファラオになろうというのであれば、婚儀も政略の一つだ」
「それはそうかもしれないが…大体、なんだってそう、俺に結婚せようとするんだ?」
今までそういう話がなかったということの方が珍しかったのかもしれないが、ユギにしてはここにきてその話題ばかりということ自体にうんざりしていたのだ。
「それは、いずれファラオとなるなら、貴様の世継も考えねばならんからな」
だから、そんな一般論的なセトの言うことにも、はいそうですかと頷けはしなかった。
更に、
「俺の血を残すってことの方が問題だろ。また三幻神の脅威に国をさらすのか?」
シモンたちにも言ったことだが、ユギには持て余す力が付きまとっている。もちろんこの力は血筋だけの話ではなく ―― 実際、ユギの父王アクナムカノンには三幻神を操るまでの力はない ―― 個人の資質によるところが大きいとは思われている。
そのため、たとえユギに子供ができたとしても、その子が同じように絶大な魔力をもつとは限らなかった。
だが、もしもユギに何かあり、力を暴走させるようなことが起これば。
それはこのエジプトを滅ぼしかねない惨事となることも目に見えている。
そんな状態で、ユギの血筋を次の支配者にするなど、国民の不安を煽る以外の何物でもないはずだった。
しかし、セトはあえてそれには触れず、
「別にあの姫を娶れといっているのではない。だが、今後はこのような話は幾らでも来よう」
とりあえずは正妃。場合いによっては2、3人の側室を持つことは考えられる。
今でこそ外交上でも問題はないとはいえ、いつこの時勢が変わるかは判らないのだ。政略結婚の一つ二つは当たり前と、覚悟をするのも王族の務めともいえるところだろう。
そんな一般論的なことをわざと言うセトに、ユギは苛立ちを隠せなかった。
だから、
「…お前は、平気なのか?」
「何?」
「俺がどこぞの姫を娶るということだ。大体、見も知らない相手なんだぜ」
「…王族の婚儀など、そういうのだろう」
「そんなことを言ってるんじゃない!」
どういえばセトにこのもやもやが届くのかが分からなくて、歯がゆいまでのもどかしさに腹が立つ。
しかも、それをそのままにしておくほど、ユギはまだ大人にはなっていなかった。
「お前は平気なのか? 俺が、お前以外のヤツを隣に置くということを」
赤い瞳が不穏な色をたたえてセトを見据える。
その尋常ならぬ雰囲気に、セトはわずかに身を引きながら、それでも突っぱねた。
「…おかしなことを言うな」
「俺はイヤだ。俺の隣には…お前が欲しい」
「なにを…馬鹿なこと…」
「お前じゃなきゃ、だめだ」
そう言ってセトの細い肩をつかむと、そのまま壁に押し付けて唇を重ねていた。






自覚 07 /  自覚 09


初出:2008.05.30.