Instrument 02


海馬コーポレーションの現総帥である剛三郎は、当然のように多忙を極めている。
そのため、同じ屋敷に住んでいるといってもモクバがその姿を見ることは滅多になく、ましてや一緒に夕食の席につくなど、この屋敷に来て初めてのことだった。
「明日から暫く留守にする。たまには夕食を共にとるのも良かろう」
そんなことを言ってモクバの同席も認めた剛三郎であったが、それを素直に喜ぶ兄弟ではなかった。
瀬人にとっては、三度の食事でさえもが「教育」である。どんな時でも最高のマナーを求められているから、当然「食事を楽しむ」などということはありえない。
だが、モクバは違う。
無論、食事はきちんと与えられていたが、いつもは自分に与えられた部屋で一人で取るのが常だったのだ。当然、マナーなど判るはずもない。
そもそも剛三郎が養子として引き取る意思を示したのは瀬人のみであり、それを何とか頼みこんでモクバも一緒に引き取ってもらったのだ。
そのため、施設とは比べようのない豪華な食事や住まいといった生活は保障されてはいたが、そこに愛情などというものは微塵も存在しなかった。
それどころかこの海馬邸に引き取られてからというもの、兄弟がゆっくりと逢える時間など皆無と言ってもいいほどであり、食事を共にするなどということさえ初めてといってもいいほどだった。
必要だったのは瀬人ただ一人。
寧ろモクバの存在は、瀬人を海馬家に繋ぎ止める枷でしかない。
(俺さえいなければ兄サマは…もっと自由になれたのに)
モクバにとって、瀬人はこの世界の全てといってもいいほどの存在である。だから一緒にいられるのなら、自分はそれこそどんな場所でも生活でも我慢することに躊躇いはない。
だが、兄は違う。
元より人に屈することを良しとはしない人となりであり、それだけの気力も持ち備えているのである。
恐らくこの兄であればあのまま施設で生活をしたとしても、いずれは自らの足で這い上がり、人の上に立つ事も可能だったと思うのだ。
そう、一人であれば。
だが、幼い自分がいたために、瀬人はゼロから這い上がることはできなかった。
まずはモクバの生活を保障する。
そのためには、どこか裕福な家を足がかりにするしかなくて。
そうして選んだのが海馬家であったのだが ―― それが全ての間違いの元だったのだ。
だが今はまだ、モクバも瀬人もそのことには気がついていなかった。
瀬人はこの家で生き残るということだけで手一杯で、モクバもまた、せめて少しでも兄の負担になるまいと気を使うことだけで精一杯だったから。
だから ――
「来年は中学を卒業になるな、瀬人」
珍しく食事の最中に話しかけてきた剛三郎に、瀬人は食事を続けながらも全神経を集中させた。
「…はい」
「早いものだ。この家に来て既に4年か」
「はい。そうなります」
感慨などという感情がこの男にはあるとは思えない。そのため、自然と瀬人の答えも慎重なものになるが、
「私は明日から海外の取引を予定している。瀬人、お前も同行するがいい」
「…はい」
それは既に決定されたことであり、それに否といえる瀬人の立場ではない。
だから、
(兄サマ…)
心配そうに自分を見るモクバに、大丈夫だとそっと微笑んでみせる。
(大丈夫だ、モクバ。心配するな)



しかしそれが ―― モクバの見た、最後の瀬人の微笑だった。






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初出:2007.04.08.
改訂:2014.09.06.

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